June 14, 2008
June 12, 2008
untitled
「演戯もまた〈始まる〉が、その始まりには真摯さが欠けている。それはいかにも軽々しい。いつでも好きなときに手を引くことができるからだ。演戯はいくつかの仕草や運動、決断、感情、といったものからなり、それだけの開始の行為を含んでいるが、しかし演戯そのものの現実性は、こうした基盤を超えたところに位置しており、本質的には非現実性によってなり立っている。だからこそ舞台上の現実は——そして注目すべき点はこれが詩や絵画には当てはまらないということだ——つねに演戯として解釈されてきた。舞台上の現実は、現実でありながら痕跡を残さない。その現実に先立つ無は、そのあとに続く無と同じである。その現実に含まれる出来事には、ほんとうの意味での時間はない。演戯には歴史がないのだ。演戯とは、永らえて所有となることのない逆説的な実存なのである。演戯の時間はあるが、この瞬間は自分自身に執着しない。この瞬間は自分自身と所有の関係を取り結ばない。それは何も持たないし、自分が消滅したあとに何も遺さず、「一切合財」を無のなかに沈めてしまう。そして演戯の瞬間がこれほどみごとに果てうるのは、じつはそれがほんとうには始まっていなかったからである。」
[Emmanuel Levinas "De l'existence a l'existant" Librairie Philosophique J. VRIN, 1984.=西谷修訳『実存から実存者へ』朝日出版社、1987年]
「行為の開始は「風のように自在」というわけにはいかない。これが飛躍(élan)なら、すぐにでも跳べる態勢であっさりそこにある。飛躍はいつでも自由に始まり、真っ直ぐ前に跳んで行く。飛躍には失うものは何もなく、気遣うことは何もない、というのも何ものも所有していないからだ。あるいはそれは、火が燃えながらみずからの存在を消尽する、そんな燃焼のようなものだと言ってもいい。開始にはそうしたイメージが示唆するような、そして演戯において模倣されているような、自在さや率直さや無責任に似たところはない。始まりの瞬間のなかにはすでに何かしら失うべきものがある。というのは、何ものか——たとえそれがこの瞬間それ自体でしかないとしても——がすでに所有されているからだ。始まりはただたんに〈存在する〉だけではない。それは自分自身への回帰のなかでみずからを所有する。行為の運動は存在すると同時にみずからを所有するのだ。」
[ibid.]
時刻: 21:32
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〈編集中〉,
memorandum,
quotation,
theatricality/performance
June 10, 2008
今日の美術批評について。
「自己責任に基づく趣味判断」と云うものについてを簡便に触れておく。
「趣味判断」の形式は、対象がなぜ美しいかと云う理由にでは無く、それについて「美しい」と言い得る為の純粋に主観的な証示に基づいている。だが仮に、そのような"証示"を自らの責任において"証明する"と云うような、過度の主体性の現れが日本における現代美術が現在置かれている状況の根幹を成す価値観であるとすれば? この「過剰な主体」が作品の枠付けに対して積極的に参与することから、観者が作品との関わり合いの裡に保有していた戯れの余地すらもが作品の内部に枠付けされ、作品への言明が鑑賞という行為に代替される事により、即ち批評における「失語」の症候がひきおこされるのではないか、と私は予想している。
時刻: 08:26
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〈編集中〉,
Aphasia,
memorandum
June 9, 2008
untitled
なぜ最近の人々は、目の前に起こる事件を携帯電話によって記録し、即座に他人へと伝達し、共有しようとするのか? この一連の行為により、出来事との直接性は曖昧な間接話法へとすり替えられてはいないだろうか。つまり、人々が今まさに眼前で繰り広げられる余りにも悲惨な——それ故に言葉にすることが出来ない——事件に遭遇した際に、その場から少しだけ離れて己の身の安全を確保し、携帯電話の画面越しにカメラのズームで事件へと肉薄する時、彼(女)らは少し前に自らが占めていた位置を仮想的に取り戻す事で、自身が巻き込まれていた"筈"の事件を傍観しているのではないだろうか? だが実際には、当の事件は今でもまだ継続している。これからまだ何が起こるかも分からずに、彼(女)らは事件に対する迂闊な距離感に釘付けにされている——言うなれば、事件それ自体からはすっかり逃げ仰せた気でいるのである。その結果として、彼(女)らは事件に対する適切な隔てを確保する事も忘れ、現場から余りに近い位置を占めている。本来このような位置取りは職業カメラマンたちの職能であったが、今ではその役割を我々が代理している——この事は最早周知の事実である。このようにして私的なアマチュア・カメラマンたちは次第に公的な生活を排除する使命感を全うしているようにも思える。ところで、彼(女)らはそのように高度な専門性を代理するに足るような技能を備えているだろうか? というのが、私がそもそも抱く直裁な疑問である。彼(女)らは、当該の事件に対しては最早カメラのシャッタを切る事が精一杯の行為であったし、このようにして得られた記録(写真)には彼(女)ら自身の考察が一切付け加えられぬまま、ただ単にその事件に対する追憶から成る無限の反復作用がデジタルなデータのコピーという行為に転嫁されているに過ぎないようにも見えるからだ。換言すれば、彼(女)らがこのような一連の操作により期待するのは、自身が考察を保留した体験を記録へと置き換えインターネット上に投棄することで、その体験が他者の言葉により肉化する"可能性"を得る事であると言えるのではないだろうか。だが、この時点ではまだ共同体内においては何も共有されていない。とはいえ、一度インターネット上に投棄されたデジタル・データを完全に消去する事が不可能であるという復元の潜在性は、日常生活においては充分にリアルである。つまり、このようなインターネットの備える潜在性の強度こそが、彼(女)らの失語を回復し、便宜的に出来事との直接性を維持する為の理由である。我々は事件の記録のコピーを所有してはいるが、その内容は余りに惨たらしく、それについてを言及することが出来ない、というような後々までの保留も含めて、彼(女)らは当該の事件に今まさに対峙している。彼(女)らの事件に対する距離感の微妙さは、傍目には現実世界への鋭く柔軟な振る舞いにも見えて、実のところは彼(女)ら自身がまだ充分にその事件を理解出来ないが為に生じる機械的な復帰に伴う強張りが具体的に現れたものなのである。であれば彼(女)らは、自身が今どの場所を占めていることを知っているのだろうか? これらの事柄は紛れも無く冗談染みた形式である。例えばコピー・データを持ち歩く彼(女)らに、空の冠を頭に載せたホカヒビトの姿を重ねてみるというのはどうだろう。
時刻: 21:22
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Aphasia,
memorandum
June 8, 2008
untitled
今日は目覚めの瞬間からして鬱屈としていた。最早何をする気にもならないと云った具合であったし、——気力さえ許せば——その侭、酒を呑んで直ぐにでも泥酔し、今日の一日をすっかりやり過ごして了いたいような気分になった。私の周囲に居る短絡者達のことを考えると、それだけでまた随分と気が滅入った。昨日購入した大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』を読み、Benjamin, W.『陶酔論(Über haschisch)』を読んだ。それから自転車に乗り近所の市立図書館へ行く。そこで
Derrida, J.『マルクスの亡霊たち——負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル(Spectres de Marx: L'etat de la dette, le travail du deuil et la nouvelle Internationale)』(1993年)、
Nancy, J.-L.『イメージの奥底で(Au fond des images)』(2003年)、
Levinas, E.『実存から実存者へ(De l'existence a l' existant)』(1984年)、
同『他性と超越(Altérité et transcendance)』(1995年)、
これらを借りた。
先程の秋葉原での出来事は、人々に嬉々とした話題を提供し、さらには彼(女)らの大衆的なるものへの帰属意識をくすぐりさえした。近間で起きた他人事を見遣っては、そこからどれだけ自分が近い位置に居たのかを皆銘々に喧伝し合っている。子供が崖の縁迄歩み寄って、そこからきゃっきゃとはしゃぎながら戻って来る様子にも似ている。皆この出来事を自分の身の丈に宛てがい口々に安堵の言葉を擦り合っている。最早、そこでの倫理観とはこのような馴れ合いが為の飾りに過ぎない。私はこの種の親密さの醸成に対しては嫌悪感を覚えるのだ。皆銘々に、この出来事についての事実を知り得る限り述べ尽くした後、最後に自らの感想を付け加えるのであるが、その際に彼(女)らが口にする「私」に四人称的な振る舞いがある、それが為に「私」と「私たち」に因る共同体の形成と個人主義的な主観への偏重とが同時に伴っているのである。言うなれば客観が主観に於いて代理され、全く欠け落ちている状態がこれである。そしてこのように了解を起因とした共同体に於いて為される死者(他者)の記述が、一体どれ程に生活の実感を与えてくれると云うのだろうか? ——そのような考えも浮かばない訳では無かった。私は、明らかに他人の不快を楽しんでいたのだが、そのように無根拠な不快感に対して、私は全き不感覚であリ続けている。
時刻: 17:27
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Aphasia,
memorandum,
Tokyo
June 7, 2008
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今日は何をすることも思い付かなかったので、一通りの家事を済ませた後は、家の中で本を読み、今週に放映されたアニメを何本か観た。天気が良かったので自転車を整備し、それに乗って近所の古書量販店へ行った。
葛飾北斎『富嶽三十六景』、
歌川広重『東海道五十三次』、
歌川広重/渓斎英泉『木曾海道六十九次』、
これらの画集を見付け、参考資料として購入した。『富嶽三十六景』を全て通して見るのは久し振りで、とても懐かしい思いがした。他に、
大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』
も併せて購入した。
今夜はとても静かで、窓を開け放つと冷ややかな風が舞い込んで来る他にはしんとして、周囲に在る一切の空気が深く押し黙った侭で居る。平素は賑やかな隣人も今だけは唖なのだ。時たまに、向こうの山の端を風が撫で付けて樹々の葉の先端を鳴らす風切りの音が、そのさらに向こう側に在る路上の気配を連れて来る。エンジンやクラクソンの音に混じって、子供らの声、下水管を流れる水の音、ビデオデッキが発する高周波音が聞こえて来る。やがて、テレビの音や、笑い声、犬の足摺る音も聞こえて来る。それらは散々に私の耳元で戦慄き、大音響の騒音と成った後に、耳鳴りでもするかのように頭上で響き渡り、そして再び静まり返った。
時刻: 11:19
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booklist,
memorandum