今日は晴れていたので、洗濯物を済ませる。久々に生活の為に時間を砕いた。陽射しの下を少し動くだけで全身から汗がわっと滲む。春先の陽光を煮え切らない梅雨空の下でやり過ごしながら、気が付けば夏の季節に急き立てられている。
それから、自転車に乗り駅前の市立図書館へと行き、借りていた書籍を返却する。代わりに、
Nancy, J.-L./Bailly, J.-C. "La comparution" Christian Bourgois, 1991.=大西雅一郎/松下彩子訳『共出現』松籟社、2002年。
Deleuze, G. "Un Nouvel Archiviste" 1970. / Foucault, M. "Theatrum Philosophicum" 1970.=蓮實重彦訳『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』叢書エパーヴ、1975年。
Guattari, F. "La Lévolution Moléculaire" Éditions Recherches, 1977.=杉村昌昭訳『精神と記号』法政大学出版局、1996年。
これらを新たに借り出した。
駅前の通りからは少しだけ外れて、この辺りでは最も未来的な匂いのする錆び付いた歩道橋の上に立ち、そこから片側三車線もの広々とした車道を見下ろした。たったこれだけの隔てが風景を途端に大雑把なものにする、空は青く広くそして人の流れはずっと緩慢である。直下に向かい降り注ぐ夏の陽光は、屢々白昼夢のエア・ポケットを用意している。自動車の流れは悠長で、ただそこに留まっているようであるか、或いはじっとこちらへとにじり寄って来るように思える。だらだらと続く上り坂を、延々と蹴り上げながら登り、山王下を迂回し、中沢から唐木田へと抜けて、また段々と空は開けを増し丘陵のかたちは序々に極まってくる。そして、そこからは暫くの道程を下り坂が続く。壊れかけた自転車のブレーキのことを気に掛けながら、殆ど同じ斜度で、右に左にくねる車道を駆け下りる。忍耐に気遣うように、同じ角度を見詰めたままひたすらに地面との着地を心待ちにしているような気分になった。
やがて近所の古書量販店に着き、
大塚英志『木島日記』(2000年)、
大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(1972年)、
id.『「救い主」が殴られるまで』(1993年)、
id.『揺れ動く〈ヴァシレーション〉』(1994年)、
id.『大いなる日々に』(1995年)、
を購入した。
大塚英志のものは、私が高校生のときに『多重人格探偵サイコ』のノベライズを読んで以来久々となる。
そこから川沿いの遊歩道をひたすら疾走する。仄明るい夏の夕暮れに、街灯よりも暗いライトを点けて、今度はレンタル・ビデオ店へと向かった。途中、スーパーの店先に寄り掛かりながら真っ当な夕食のことを考えたりもしたが、それまで飲んでいた炭酸飲料の為に、とうとう食欲から喚起されることも無く豊かな食生活の実践は不発に終わった。
GAINAX『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987年)、
STUDIO4℃『Genius Party』(2007年)、
Christian Volckman "RENAISSANCE"(2006年)、
これらを借りた。
——『王立宇宙軍』を初めて観たのは、確か17年前のことになるだろうか。この作品の舞台となる世界は、或る部分では私たちの棲まう現実よりも進歩し、或る部分では遅れている——異形の可能性の裡に描かれた同時代なのだ。物語は、人類初の有人衛星の打ち上げを軸に、幾つかの紆余曲折を経て、その成功からの達成感を以て突然終わる。私の脳裏に深く染み付いていたのは、主人公シロツグが発射台を眺めながら「ハリボテの歌」を口ずさむシーンであり、最近になってやっとそれが何と云う作品の一場面であるかを知ることとなった。当時の幼い私の記憶を鑑みても、それは余りに断片的な印象にしかない為、再び符合を得ることには随分と困難を要した。それに、私の記憶に於いてこのシーンは物語の冒頭部に位置している筈であったが、実際には殆ど終端部にこれを発見することになる。
帰宅して、DVDを観ようとTVを点けたら、画面に Karajan カラヤンの姿が映し出された——Mozart, D minor K. 626 "Requiem"、このプログラムの放送開始時刻から40分ほど経った一場面に、——カラヤンと云えば眼を瞑って指揮をするという印象が強いが、これは眼を開けたままのものだ。1986年、Wiener Phil.——思わず釘付けにされたのだった。
July 19, 2008
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時刻: 23:30
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July 12, 2008
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近所の古書量販店にて
弐瓶勉『BLAME!』(Bd. 3, 4, 6, 7, 10)、
手塚治虫『三つ目がとおる』(Bd. 8)、
高橋和巳『わが解体』(1971年)、
島田雅彦『アルマジロ王』(1991年)
を購入する。
窓を開け放ったまま昼寝をしていると、私の身体は夢を媒介としながら序々に大気の状況へと消え去ってゆくのだが、このようにして確立された夢の中の世界は、次第に私の想念へと収束していった。そして不意に夢は途切れた。私は依然として夢現の最中に在りながら、外界の状況でも確認するかように、深く内界へと落ち窪みつつ窓の外を見遣った。雨が吹き荒び、雷鳴が轟き、およそ重力がこの世界の原理とはなり得ないほどに、私の立てる理由はすっかり横流しにされていた。凄まじい嵐だった。びいびいと唸りを上げる突風は私の部屋の方形に捩じ曲げられながらも、その周囲を取り囲むようにして、眼前の栗林の樹々を殆ど根元から真横に押し倒していたが、寧ろそれにより栗の樹の具えるしなやかさが私の重力を恢復するための強情な彩りを露わにしているとも思えた。私はそのような或る外界の状況を眺めて、吹き荒ぶ風にすっかり横倒しにされたままに立てる己の姿を何度も幻視した。そしてまた深い眠りに就いた。
時刻: 10:21
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July 4, 2008
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「幽霊というのは私の関心事であり=私を眼差しており、もしおまえが生をもって、phantasmagoreuein〔幽霊ヲ語ル〕の言語行為でもって、それをおこなってもうまくゆかない。回り道という骨の折れる試練を経由しなければならないのだ。実践的諸構造を横断し変形〔travailler〕しなければならず、実在的、「経験的」等々の現実性が持つ確固とした媒介を横断し変形しなければならないのだ。さもなければおまえが追い祓えるのは身体の幽霊性のみであって幽霊の身体そのものではないだろう。」
[Derrida, J. "Spectres de Marx: L'État de la dette, le travail du deuil et la nouvelle Internationale" Éditions Galilée, 1993.=増田一夫訳『マルクスの亡霊たち——負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル』藤原書店、2007年]
時刻: 19:48
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June 28, 2008
『絵画のコスモロジー』展
今日は多摩美術大学美術館へ行き『絵画のコスモロジー』展を観た。
レセプションの会場でKgbさんと話す。
思い掛けず、久々のことだったから少し緊張した、例の如くにまた私は彼女に向かって一方的に喋り倒していた。
緊張すると心が上擦って饒舌になる悪癖は、相変わらず直らない。
時刻: 22:28
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June 22, 2008
toi『あゆみ』@駒場アゴラ劇場
駒場東大前に在る、駒場アゴラ劇場へと行き、
toi『あゆみ』を観る。
終演後の、関係者による打ち上げに顔を出す。
時刻: 23:51
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June 18, 2008
Art and Objecthood
「リテラリズムの感性は演劇的 theatrical である。なぜなら、まず第一にそれは、そこで観者がリテラリズムの作品に出会う諸々の現実的な環境にかかわっているからである。モリスがこのことを明らかにしている。かつての芸術においては、「作品から受け取られるべきものは、厳密に[その]内部に位置している」のに反して、リテラリズムの芸術の経験は、ある状況における客体の経験である——それは実質的には定義上、観者を含んでいるのである。」
[Fried, M. "Art and Objecthood in Minimal Art" E. P. Dutton&Co. Inc., 1968.=川田都樹子/藤枝晃雄訳『芸術と客体性』(『モダニズムのハード・コア』 所収)太田出版、1995年]
「あるものが観者にそれを考慮に入れること、それを真剣に受け止めることを要求するとき、——そして、その要求が満たされるのが、単にそれについて意識していること、いわば要求どおりに行っていることによってであるとき——、それは現前していると言われる。(…)ここで再び繰り返すと、問題の作品によって距離を取らされているという経験が重大であるように思われる。つまり、観者は、壁なり床なりにある無感動な客体に対する主体として、不確定ではっきりとした制限のない——そして厳しさのない——関係の中に自分が位置していることを知るのである。」
[ibid.]
「暗い夜で、灯も路肩標も白線もガードレールも何も無く、あるのはただ平地の風景の中を通って進んでいく暗い舗装道だけだった。風景は遠くの幾つかの丘に枠づけられ、だが叢煙突や塔や煙霧や色光が点々と見えていた。このドライブは意義深い体験だった。道路と殆どの風景は人工的なものだったが、それは芸術作品とは言えないものだった。他方で、それは私にとって、芸術には決してなかった何かがなされていた。最初私はそれが何なのか分からなかったが、しかしその効果は、私がそれまで芸術について持っていた多くの観点から私を解放することになった。そこには、芸術においてはどんな表現も持たなかったような、リアリティーが存在していたように思えた。」
[《It was a dark night and there were no lights or shoulder markers, lines, railings or anything at all except the dark pavement moving through the landscape of the flats, rimmed by hills in the distance, but punctuated by stacks, towers, fumes and colored lights. This drive was a revealing experience. The road and much of the landscape was artificial, and yet it couldn't be called a work of art. On the other hand, it did something for me that art has never done. At first I didn't know what it was, but its effect was to liberate me from many of the views I had about art. It seemed that there was a reality there which had not had any expression in art.》
ibid.; originally appeared as Samuel Wagstaff, Jr., "Talking with Tony Smith: 'I view art as something vast.'" Artforum 5, no. 4 (December 1966), 14-19.]
「高速道路と滑走路と教練場は、一方で、誰にも所属していない。他方で、スミスにとっての現前性によって確立された状況は、各々の場合、彼によって彼のものだと感じられたものだ。さらに言えば、各々の場合、無限に継続することができるということが、欠くべからざることなのである。客体に取って代わるもの——客体が閉ざされた部屋の中で行うこと、つまり観者を遠ざけるもしくは孤立させるという役目、観者を一主体にさせるという役目と同じ役目をするもの——は、何よりも接近なり突進なり眺望なりに終わりがないということ、もしくは客体がないということである。その明瞭性、換言すればその全き持続性によってこそ、その経験は外部から彼のところに(高速道路の上では車の外から)差し向けられたものとして現れるのだが、その明瞭性こそが、同時に彼を一主体 subject とし——彼を服従 subject させ——、またその経験自体を客体 object の経験というより客体性 objecthood の経験に似たようなものとして確立するのである。」
[ibid.]
「諸芸術の成功または残存でさえもが、演劇性を打破するそれらの能力にますます左右されるようになっている。おそらくこのことが演劇自体の内部において以上に明白な場所は他にあるまい。(…)というのも演劇は、他の芸術ではあり得ない仕方で観衆を所有している——演劇は観衆にとって存在している——からである。(…)ここで言及されるべきことは、リテラリズムの芸術もまた観衆を所有しているということ、ただしそれはいくぶん特別な観衆であるということだ。つまり、観者が自分のものとして経験する状況の中でリテラリズムの作品に対面するということが意味するのは、ある重要な意味において、たとえ実際には、その時作品とともにいるのが自分だけではなかったにせよ、その問題の作品は自分ひとりにとってのみ存在するということである。」
[ibid.]
「質と価値という概念——そしてこれが芸術にとって中心的なものであるからには、芸術それ自体の概念——は重要である。しかも個々の諸芸術の内部においてのみ全面的に重要なのである。諸芸術同士の間隙に位置しているものが演劇なのである。」
[ibid.]
「リテラリズムの時間への没頭——もっと正確には経験の持続への没頭——は、典型的に演劇的だと私は言いたい。それはあたかも演劇が観者に対面し、そのことで、単に客観性の終わりの無さだけでなく時間の終わりの無さによって、観者を隔離しているかのようである。もしくはあたかも、根底において演劇が喚起する感覚ははかなさの感覚、つまり無窮の眺望の中で捉えられたかのような、過ぎ去りつつ且つ至り来る時間、近づくと同時に退く時間の感覚であるかのごとくである……。」
[ibid.]
時刻: 23:10
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〈編集中〉,
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theatricality/performance
June 15, 2008
untitled
近所の古書量販店へ行き、
島田雅彦『彗星の住人』(2000年)、
大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)、
村上春樹『アフターダーク』(2004年)、
を購入する。
時刻: 22:08
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