August 4, 2008

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 大学時代の同窓たちと顔を合わせる機会を得る。1ヶ月振りや半年振り、中には数年振りと云う人も居た。私の他は女性ばかりで、奇妙な居心地を味わったがそれは決して嫌なものでは無かった。マドンナは来なかった。この日は昼から雷が鳴っていた。窓の外のヴェランダに在るオープンなテーブルセットが雨に濡れ続けている様子は、それらがネオン光と雷光とに照り出されていた為にか、奇妙なものに見えた。
 彼女たちはそれからカッフェに場所を移して歓談を続けるようだったが、郊外に住む私は終電の事を気にして足早にその場を辞した。よくよく考えてみれば、あと30分ばかりは時間の余裕も有ったかもしれない。

August 3, 2008

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有楽町へ行き、同窓のTksさんと『スカイ・クロラ』を観る。

August 2, 2008

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 『ペトルーシュカ』の稽古の為に尾久へ行く。初めての通し稽古だったということもあり、当然ながら緩慢なところや退屈なところが散見される。だが、Ykt君が本作の為に用意した結末には思いのほか面白い効果が生まれていて、これを起点としながら結末までに至る過程を整理するだけでそれなりに良いものにはなるだろうという予感はしたのだ。
 それから場所を新宿へと移して、舞台美術を担当するYmtさんを交えて作品全体を通底するイメージを決定する為の打ち合わせをする。その成果からは中々良い具合の空間になりそうだという直観が働く。そう思えたら、段々と作品の完成が楽しみになってきた。私にとっては蛍光灯の効果を充分に発揮することが出来るという点でもやり甲斐は大いに有るから。

August 1, 2008

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 遅めの朝に起きて、身の回りを簡単に整えた後に最近公開された『崖の上のポニョ』を観始めた。『千と千尋』以降のジブリ・アニメには繰り返し観るに値するだけの魅力が感じられないから、私はわざわざ映画館にまで足を運ぼうと云う気にはならなかった。周囲に先駆けてまで観るほどの情熱も湧かないし、何かの機会に観てその一度きりで終わりという感じだ。
 暫くの間は漠然と眺めていたけれども、それから映像の再生を中断して昨晩の残務処理をこなす為に日吉へと向かった。仕事は結局30分ほどで済んでしまったし、久々の休日にすっかり気も緩んでしまったから、慶応大学のキャンパスを少しばかり散策した後は武蔵中原に立ち寄り駅周辺を逍遙する。持参していた本をカッフェで読みながら、改めて久々に味わう余暇の充実を感じた。机上に積んだ数冊を全て読み終えてから、やや暗がりとなった帰路に就いた。そして帰宅してから身の回りを簡単に整えた後に、『崖の上のポニョ』の続きを再び観始めたのだった。

July 26, 2008

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「ある動物がなにか他の動物を食べるときに与えられるのは、いつでも食べる動物の同類である。この意味で私は、内在性と言うのである。
 つまりそれとして認識された一個の同類が問題になるわけではないのだ。食べる動物は、食べられる動物に対して超越性としてあるのではない。おそらくそこにはある相違はあるのだけれども、他の動物を食べるこの動物が、その相違 différence をはっきり肯定しながらその他の動物に対立するということはありえないのである。」
[Bataille, G. "Théorie de la Religion" Éditions Gallimard, 1973.=湯浅博雄訳『宗教の理論』筑摩書房、2002年。]

「ある種類の動物たちは、お互いに共食いすることはない……。なるほどそれは正しいけれども、大鷹が雌鶏を食べる場合に、われわれがある物=客体 objet をわれわれ自身から区別するのと同じような仕方で、大鷹がその雌鶏を自分自身から明確に区別しているのではないとしれば、それはたいした重要さを持たない。そういう区別がなされるためには、物=客体がそれとして定置されることが求められる。もし物=客体が定置されていないならば、補足しうる差異は存在しないのである。動物にとっては、時間の軸に沿ってずっと与えられているものはなにもない。物=客体が時間の内に、つまりその持続がそこにおいて捕捉されうるような時間の内に存在するのは、われわれが人間としてあることによるものであり、ちょうどまさしくその度合に応じてそうなのである。ところが反対に、別の動物によって食べられる動物は持続に至る手前に与えられており、それは消費され、破壊されるけれどもそうした動物の消滅とは、いま現在の時間の外にはなにものも定置されていないような一世界の内における消滅に過ぎないのである。」
[ibid.]

「たとえば誰かが料理を、ローストかグリルを用意しているとして、肉が調理されているときとテーブルの上でそれが食べられるときのと間には切断があります。食べることと調理することとの間には不均衡があるのです。この不均衡は、これは言っておかなければなりませんが、とても重要で本質的な何かです。この切断が人間と動物とを区別しているのです。動物はすぐに媒介なしに食べ、その食べ方は貪欲です。つまり動物は延期しない、原則として何ものにも後に延ばすということはありません。食物がなくて空腹になれば、動物は食物を捜しにいきます。空腹だということと食物を捜すこととの間に違いはありません。食物は見つかりさえすればすぐに食べられるわけですから、食物を捜すことは結果に従属した時間ではありません。」
[Bataille, G. "Conferences 1951-1953 Œuvres Completes, Tome VIII)" Editions Gallimard, 1976.=西谷修訳『非-知』平凡社、1999年。]

July 21, 2008

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 「白痴」と云う言葉から、即座に「娘」や「少女」のような年端も足りぬ女の姿が想像されるのは何故だろうか。私にとって「白痴」の意味するものが、女性にでは無く「女」と云う形象へと直裁に結び付く事は不思議に思える。この言葉から想起され得るものは、即ち「女性」と言われるような確固たる女として確立された人格にでは無く、それから幾分かの或る欠如を伴ったものとして立ち現れるものでなくてはならない、と云ったふうに。それについて、一つは私の自意識の表現形が歴然として男性的であると云うこともあるのだろうが、寧ろ彼女の年齢を理由とした私に対する従属の強制を、彼女を意のままに使役したいと云う願望から導き出す為なのかもしれない。
 例えば、或る女性に対して、私は彼女を己の娘として迎え入れたい欲求に駆られる事があるが、その場合に彼女を私と同格の世代に据えずその下の世代に留めておこうとするのは何故か、と云う不思議にもこの疑問は通じているように思われる。

July 20, 2008

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 この日は来月下旬に公演日を控えた『ペトルーシュカ』の会場を下見する為に、関内へと足を向けた。毎日の通勤路をそっくりなぞるようにして、明日もまた同じ道程を辿るというのに、歩き馴染んだ経路を足早にこなし日吉を更に越えて横浜へと至る。会場となる ZAIM に着くと、先に下見を終えたSd君(彼はこの公演では照明オペレーションを担当する)と合流し、夏の暑さを避けて近くのカッフェへと逃げ込んだ。そこで暫く、照明プランについての打ち合わせをする。再び ZAIM に戻り、プランの確認をする。用事を済ませた後、駅の近くでビールを飲みながら彼と世間話をして、それから電車に乗り私は新宿へと向かった。その途中までの経路を同じくする彼は新橋で下車し、私は東京駅で中央線に乗り換えた。
 次の打ち合わせまではまだ暫く時間が余った。それまでをどのようにして過ごすかが目下の緩慢な悩みどころとなった。私は駅周辺をふらふらと経巡って中古CD屋に入った。すると、偶然居合わせたKndさんとFjtさんとを運善く暫しの話し相手として掴まえることになる。不思議なものだ。Kndさんから彼の個展の観覧チケットを貰った。彼らとの会話の中で知人の近況を伝聞形で窺いながら、頃合いを見計らってその場に別れを告げた。次に再会するのはいつになるだろうか?
 それから数店舗を気の赴くままに梯子して、新宿二丁目へと行きまたビールを喉に流し込んでなけ無しの羽を伸ばした。靴底にも霊感を! とは云えここでようやく尻餅をついたような恰好になったので、私は店先のテーブルに寄り掛かり自らの陰気さのことを若干だけ気にしながら、少しの間は照明プランのことを考えていた。そしていま思い返すと身悶えするような拙い私の他国語を恥じながら、周囲を銘々に陣取る他国人の会話に耳を峙てていた。そこでYkt君と待ち合わせ、定刻に他の打ち合わせのメンバーとも合流して、なんやかんやと話し合いをし始めた。