August 28, 2006

August 27, 2006

"Minimalist Program"

概念とは、まるで足の速い兎のようなもので、
それを掴み取ったかと思うや否や、その概念は
握った両手からするりと抜け出ている。
それ故に思索の歩みとは、先ずその逃げ易い兎を囲い込む為の"檻"を見繕うことから始められる。

私は、夜の森の中を通り沿いに歩きながら、「彼れでも無い、此れでも無い」と考え倦ねていた。
ふと、夜の通りを一台の自動車が走り抜けていく事に気が付いた。
自動車のフロント・ガラスは、一定のリズムを刻んで橙色の街灯の光を照り返している。

"Good Tempo ..."

その瞬きの連続こそが速度なのだ。
然しそれは、そもそも街灯が等間隔に置かれていることを信用する証でもある。
私は、再び歩き始めた。

私は或る考えに取り憑かれていた。
私は自分の書いた文章に適切な注釈を付けぬことによって悪筆家と成ったが、
それは同じ轍を二度踏む事に等しい。
私は最早、考え得る事すら考えないようにしていた。
私の思いは、私が既に考えている事と全き同義になって了っている。

「私の不幸を笑う者は無いか?」

闇の中から誰か現れでもしようものなら、
その口元すら嫌悪しようと考えていた。
とうとう誰一人として私に出会う者は無かったが、
私は子猫だけを見続けていた。
仄暗に浮かぶ橙色の眼をした子猫を、である。

その瞳を覗き込むと、私は酷い顔をしていた。

August 15, 2006

untitled

「私は、分水嶺に、ひとつの感じがあるように思う。(…)地の果てというと、この大地の上のひとつの物尺をあてて、そのまま真直ぐ気の向いた方へ無限に延長した何処かの果て、荒涼たる氷海に閉ざされた暗澹たる土地を想像しがちであるが、もしこの大地にそって幾日か進めば、すでに私達はその地の果てに達しているのである。そこへ達すると、私達の地を這う習性が試されるように思われる。小さく光った湖や光を吸いこんだ黒い森や白い蒸気がたちのぼっている裸かの大地などが、そこから神々の庭のように眺めおろされるが、と同時に、虚空に接している屋根から真上の蒼穹を眺めあげると、不意に一歩踏みのぼりたくなるのである。(…)——そんな何処かへ架かろうとして極まっているひとつの地の果ての感じは、虚空へのびあがった分水嶺に、たしかにあるように私は思う。」

[埴谷雄高『虚空』1950年]