October 26, 2008

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 東京都現代美術館で催されている『ネオ・トロピカリア——ブラジルの創造力』展を観に行く。思ったよりも出展作品が多彩で、中々楽しめた。併催されてた常設企画『サヴァイヴァル・アクション』展も良かった(MOTの常設企画展は毎回、内容が充実している)。
 「一二三美術店」には行きそびれた。
 上野でのKgbさんの展示を観に行こうかとも思ったが、この時は止めた。
 自宅の最寄り駅に在るカッフェで3時間ほど読書をする。8時を過ぎたあたりで、「君」がレジスターの前に立っていた!

October 25, 2008

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 新宿の準久堂にて、『Review House』(No. 2)を購入した。
 その後、三越の店先で、待ち合わせていた大学時代の同窓のKrhさんと合流し、区役所通り沿いのタイ料理屋に行った。

October 20, 2008

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 幼少期の記憶には思わぬ摺り替えが紛れていて、思い返してみれば整合性の欠ける事柄であっても、寧ろこの間違ったものこそが正しいのだと思えるようなことは多々有る。例えば、故人の口真似をしてみせる遺族の立ち振る舞いに、ふと当の故人本人の面影が宿るということが有りはしないか。この考えを突き進めてみれば、私は今まさに死者と対峙していると言うことは出来ないだろうか。そして、このような飛躍に在ってもなお正気が持続し得るというのであれば、私は誰か死者の記憶を知らぬ間に引き受けているということも当然有り得ることだろう。このような記憶もやはり私の持ち物として思い返されるのであるが、間断ない経験の時間において、ふと"引き結び"の結滞が発見される(対象は既に在る)ときには、記憶の流れは脇道へと押し遣られて、そして引き解かれた結び目の長さだけ余分な時間の経験を知ることになるのである。すると結び目は消え、また元の間断ない時間へと帰り着いている。この余分な時間が "Déjà vu" として、まるで初めて起こる事柄が既に在ったかのようにして繰り返されるのを目の当たりにするのである。

October 19, 2008

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 谷中巡りをする。昨晩は大学院時代の同窓生だちと久々に集まり酒を呑んだ。
 谷中霊園で、川上音二郎と重野安繹の墓を詣でる。そう云えば青山霊園には乃木希典と三島通庸の墓の在った事を思い出す。——オッペケペー、mon cul(けつ喰らえ)! ふらふらと宛てなく路地を歩き、やがて商店街へと至り、それから上野へ向かう。
 10年振りくらいに国立科学博物館へ行く。館内はすっかり改装されていて、今では昔の面影も無い、古生物の骨格標本と"Zeke"を観る。ふと、パリの国立自然史博物館へ行きたくなる。国立科学博物館についての記憶は、脇道を抜けるようにそこへと繋がっている。セコイアの年輪——これは Chris Marker "La Jetée"からの印象だ。私にとって、幾多の骨格標本や剥製標本の並ぶ光景は、NMNH を通り抜けて全てが MNHN へと結び付いている。
 自宅の最寄り駅に在るカッフェで、3時間ほど読書をする。8時を過ぎたあたりで、「君」がレジスターの前に立っていた!

October 14, 2008

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 仕事を終えた後、「火曜会」の為に下北沢へ行く。
 会の有る店は駅から坂を下ったところに在る。その途中の古書店で、
『文学と悪』(山本功訳、紀伊国屋書店、1959年)[=Bataille, G. "La litterature et le mal" Gallimard, 1957.]、
『色彩論』(菊池栄一訳、岩波書店、1952年)[=Goethe, J. W. v. "Zur Farbenlehre; Materialien zur Geschichte der Farbenlehre" 1810.]、
『家畜系統史』(加茂儀一訳、岩波書店、1935年)[=Keller, C. "Die Stammesgeschichte unserer Haustiere" 1909.]、
これらを購入した。
 会に出席するのは半年振りのことで、在る筈のものとは異なる店構えが私の意気を押し止めた。これは別の店ではないかと云う疑念や、のみならずここには誰も知った顔の一人も居ないのではないかという怖れも有ったが、店先に掛かる見覚えの有る看板に救われて、私は店の中に入ることが出来た。
 『家畜系統史』は、この会の恒例事に因り同窓のIshさんの手に渡った。

October 13, 2008

MTG "Message"@BankART NYK

 友人と BankART NYK へ行き、"Makhampom Theater Group"(TH)の演劇公演《The Message》を観た。運河に艀を浮かべ、その上を舞台として用いていた。近頃では夕方になると少し冷え込む。
 主にタイ語による劇作品で、ところどころで戯画的な日本語が用いられている。表現方法として、タイの大衆的な舞踏劇である「リケイ」の様式を用いている。演者はスパングルのきらびやかなタイの伝統的な衣装を着けている。字幕は舞台奥中央部にプロジェクションされている。さながら地方部でみられる観光客向けのショーといった感じがある。物語はクメール調の神話をモチーフとした宮廷もののコメディー劇で、その内容は他国語によるものとはいえ平易であった。
 BankART NYK で観劇をする前には、三渓園へ行き、園内を散策しながら古建築の趣きを楽しんだ。中谷芙二子の雲の作品を観た。

October 12, 2008

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「僕はオルケストラを横切って、腰を下ろした。僕はそれまで大理石の席がこんなにも優しいものだとは、また太陽に温められた石がこんなに弾力があって柔らかいもの——ほとんど肉体のように——だとは、思ってもみなかった。(…)舞台は山並みの一部になって、まさに地平線の上にあった。その向こうには、もう空しかなかった。空にはしみ一つなかった。人間のつくったものが自然をそこなわずにいるのと同じように。ここでは何一つ衰微するものはなく、何一つ品位を汚すものはなく、何一つ威厳を失墜させるものはなかった。一面の波になって広がるこの調和あるものを前に、僕はもう限界も矛盾も感じなかった。」

[『オディール』(宮川明子訳、月曜社、2003年)=Queneau, R. "Odile" Gallimard, 1937.]

October 11, 2008

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 水戸から駆け付けてくれた友人と夜の高尾山へ行く。彼との付き合いは既に10年を超えていて、言わば"腐れ縁"と云ったふうに小中高と同じ進路を共にした。然し大学は別々だったが、それでも年に何度かは交流が続いていた。気心の知れた、或いは気の置けない友人と言える。彼は相変わらずのクレイジーである。
 暗闇の高尾山で、私は山道の奥から声を聞いた。それですっかり恐ろしい気分になってしまい、「探検」と云う蛮勇を止めた。それは登山道ではなくて、地元民以外の人通りを退けるかのような、と或る閉鎖的な杣道だった。
 それから、私は彼と二人で、行き慣れた青木ヶ原樹海へと向かった。彼が私の他の友人とは異なってクレイジーなのは、こう云う発想の気軽さを易々と実行に移す為の機転に因るのだろう。兎角、それを提案した私が唖然を喰らうような気安さが有る。それで私は彼と共に、今は暗闇の樹海を目の前にしている。そして彼は、駐車場からそう離れていないような、昼間は明け透けな夜の遊歩道でと或る声を聞いた。それで私たちはすっかり縮み上がってしまった。それからほどなくして、私たちは帰路に就いた。

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「ローマがこの最果ての地に、茫然として、おそらく無尽蔵である真水の海にたどり着いた時——カエサルとローマ、この二つの誉れ高い名前がここにたどり着いた時——女神の焼け焦げた木像はすでにそこにあった。伝導の熱意がなく、むしろ敗北した神々を受け入れ取り込むことを好む帝国にふさわしい無関心さで、それはディアナもしくはミネルヴァと呼ばれることになっただろう。」

[『アトラス——迷宮のボルヘス』(鼓宗訳、現代思潮社、2000年)=Borges, J. L. "ATLAS" 1984.]

October 9, 2008

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仕事帰りに新宿の淳久堂へと立ち寄り、
『シネマ 1 運動-イメージ』(財津理/齋藤範訳、法政大学出版局、2008年)[=Deleuze, G. "Cinéma 1 L'image-Mouvement" 1983]、
『シネマ 2 時間-イメージ』(宇野邦一・ほか訳、法政大学出版局、2006年)[=Deleuze, G. "Cinéma 2 L'image-Temps" 1985]、
『霊界日記』(高橋和夫訳、角川書店、1999年)[=Swedenborg, E. "The Spiritual Diary" 1747-1765.]、
これらを購入した。

October 8, 2008

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 新宿二丁目に在る行き慣れた店で、SskさんOtnさんとの三人でビールを呑んだ。演劇の話題を中心に、芸術に向かう態度について話したのを記憶している。Sskさんは先日ポーランドから帰国したばかりで、現地のことを聞くのは非常に楽しかった。私は外国に居る友人と話す機会を見付けては現地の状況を知ることに楽しみを感じる。既に遠い過去となってしまったように思えるが、私が幼い頃に外国で過ごしたことを思い出すのは常にこう云う機会に於いてである。

October 6, 2008

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「「東京」というのは「日本」というのと同じで、その中にいろんな町があり、その町の中でもいいところ、いやなところがある。そして、日本全体を小さく寄せ集めたような「東京」のいいところもいやなところも、「日本」のいいところ、いやなところなのだ。」

[筒井康隆『愛のひだりがわ』岩波書店、2002年]

October 5, 2008

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 昨晩の深酒の為に昼過ぎに目覚めた。暫くの間は昨日買った Bruckner を聴きながらただ呆としていた。夕方になり、近所の中古本量販店へ行こうかと自宅を出ると、雨が降り始めていた。傘を持って行きはしたが、行きの道中はさほど降られることもなく、傘を差すこともなかった。
夏目漱石『それから』(『漱石全集』Bd. 8、岩波書店、1909/1956年)、
id.『彼岸過迄』(id., Bd.10、1912/1956年)、
id.『行人』(id., Bd. 11、1913/1956年)、
岡倉覚三『茶の本』岩波書店、1906/1929年、
芥川龍之介『歯車』岩波書店、1957年、
『古い医術について』小川政恭訳、岩波書店、1963年[=ΙΠΠΟΚΡΑΤΟΥΣ "ΠΕΡΙ ΑΡΧΗΣ ΙΗΤΡΙΚΗΣ"]、
筒井康隆『愛のひだりがわ』岩波書店、2002年、
萩原玲二『パプリカ』(原作: 筒井康隆)英知出版、2003年、
これらを購入した。
 店を出ると、これが今夜の本降りであるらしく、鬱陶しい具合に抑制の利いた、翌朝の雨を想像させる調子の夜に、私はしずしずと傘を差して帰路に就いた。

October 4, 2008

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 今朝は晴れた。最早習慣となった平日の起床時間に私は意地汚く目を覚まして、洗濯をし、部屋の掃除などを済ませてから、駅前のカッフェに行き数時間を読書の為に充てた。14時くらいには心地好い生活の疲労感によって眠気を感じた。
 それから友人との待ち合わせの為に、定刻よりは幾らか早めに渋谷へ行く。 TOWER RECORDS へと足を向ける。駅からの経路がすっかり足の運びに馴染んだような具合で。
Enesco, G. による Tchaikovsky, P. I. の Symp. No. 4 および自作自演のヴァイオリン・ソナタ第3番 "dans le caractère populaire roumain"、
Klemperer, O. による Bruckner, A. Symp. No. 4, 7, 8、
これらを購入した。
 友人のYkm君と豚しゃぶを食べる。「相変わらず」といったように、あれこれのことを歓談する。それは目の据わるような内容の会話で、私は幾ら酒を煽ろうとも、然しちっとも酔えないのではないだろうかと思った。そして案の定、浅い酔いを懐に仕舞って帰宅路に就いた。
 彼から、青野聰『愚者の夜』を貰った。