August 30, 2009

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 この日は、北浦和にある埼玉県近代美術館へ行き、『長沢英俊展——オーロラの向かう所』を観る。思えば、氏の作品については1996年の水戸芸術館での展覧会図録を見るばかりだったから、ここぞと浮き足立つ歓びが感じられるのだ。ふと、M先生とT先生との対談が行われていることに気が付く。偶然にも。否、悦ばしきものは絶えず列を成して向こう側からやって来る。会談終了後に、久々に両氏とそれぞれ話をした。だが思いのほか気分は芳しくならかったのだ。そして海から陸へ上がったときのことを思い出した。雨がパラついていた。
 川越市立美術館、遠山記念館へは来週赴くことになるだろう。行きに湘南新宿ライン(宇都宮線直通)の下り電車に乗り、都心から郊外へ、やがて景色が閑散と透けていくのを見て、俄かに淡い恥を覚えたのは、このまま寝過ごしてしまえばいずれ郷里にも到達するのだという理解からである。帰宅路は京浜東北線を赤羽で乗り換えて再び湘南新宿ラインに、渋谷へと向かう。
 それから渋谷の TOWERRECORDS へ行き、
Shostakovich, D. "Symphony No. 7"(RCA/BMG, Toscanini, A., NBC Symphony Orchestra, Jul. 19. 1942, live.)、
Morzart, W. A. "K. 299/K. 297c/K. 447/K. 297b/Le Nozze di Figaro - Overture/K. 319/K. 543"(VЕНЕЦИЯ, Mravinsky, E., LenigradPhilhamonic Orchestra)、
Beethoven, L., "Piano Sonata No. 30-32"(SONY BMG, Gould, G., Jun. 28-29. 1956, Studio.)、
これらを購入した。
 雨は時折激しく降り、次第に小雨へと変じていった。

August 26, 2009

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元住吉の中古本屋にて、
漫☆画太郎『地獄甲子園』(Bd. 1-3、集英社、1996-1997年)、
を購入した。

August 23, 2009

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元住吉の中古本屋にて、
岩明均『寄生獣』(Bd. 1-10、講談社、1990-1995年)、
を購入した。

August 20, 2009

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See more glass, Mama!(ママ、もっと鏡を見て!)

 朝、揺すり起こされたような感じがして、何の気なしに目を覚ますと、自宅のすぐ前の路上でTVドラマのロケ撮影をやっていた。その怒号に叩き起こされたのだということが分かった。今だにTVなどという、くだらないものを見ている人間が幾らかいるのだということに驚いた。彼らは8時半から騒ぎ出し、9時きっかりにはいなくなった。

擦れ違いに出会ったと或る女性は、右肘の辺りに汗疹のような炎症を起こしていた。私もこの夏の湿度の為に皮膚を爛れていた。このような男女が肌を合わせるようなことがあれば、さぞ不快な感じがするだろう、と私は想像していた。彼女は何喰わぬ顔で私の直ぐ左脇を駆け抜けていった。

August 16, 2009

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帰京。
新宿、淳久堂にて、
齋藤磯雄訳『未來のイヴ』(創元社、1996年)[=L'isle-Adam, V. "L'éve Future" 1886.]、
岡谷公二訳『ロクス・ソルス』(筑摩書房、2004年)[=Roussel, R. "Locus Solus" 1914.]、
『軍事研究』(No. 522, Sep., 2009.)、
これらを購入した。

August 11, 2009

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 火曜会の為に下北沢へ行く。その会場の道すがらに在る古書店にて、
藤村昌昭訳『フーコーの振り子 上/下』(文芸春秋、1993年)[=Eco, U. "Il Pendolo di Foucault" 1988.]、
を購入した。
 会にてTzk君から『現代詩手帖』(思潮社、Aug.、 2009年)を貰った。

August 10, 2009

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 元住吉の書店にて、
二ノ宮知子『のだめカンタービレ』(Bd. 22)、
を購入した。

August 9, 2009

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 元住吉の書店に、
いくえみ綾『潔く柔く』(Bd. 10)、
を購入した。

August 7, 2009

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 "神と云うもの"の存在感が信仰心を以て乗り越えなければならぬ彼岸にあるのだとすれば、——この独自的な心情——或る他律的な理由に立脚する強度に対しての疑念とともに、我が身の裡に於いて例え"かりそめの神"としながらも、そのような性質の神を備えていることが凡例的な信仰心の姿とも対等ではないか、と考える。