March 30, 2009

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近頃では古書店を覗く度に、乱歩熱がやおら疼く。童心の頃を思い返しては、乱歩に読み耽りたい——否、そのような時間が欲しい、と思う。だが、そう云う時間は生活から毟り取ってでも生み出さねばならないものだし、余地として眼前に転がり出てくるものではない。
職場からの帰りしな、元住吉の中古本屋にて、
池上遼一『肌の記憶』(小学館、1999年)、
石黒正数『Presentforme』(少年画報社、2007年)、
これらを購入した。

March 29, 2009

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起き抜けの微睡みを曇天に過ごした。中原図書館までの道程を、用水路沿いに咲く四部咲きの桜を眺めながら歩く。序々に日が照ってくる。やがて汗ばむ陽気となる。
転居してから初めて最寄りの図書館を訪れた。図書カードを作成し、
宇野邦一・高橋康也訳『消尽したもの』(白水社、1994年)[=Beckett, S. "Quad et autres piéces pour la télévision suivi de L'épuisé par Gilles Deleuze" 1992.]、
飯吉光夫訳『パウル・ツェラン詩集』(小沢書店、1993年)[=Celan, P. "Gespräch im Gebirg" 1983. / "Gegenlicht" 1977. / "Ansprache Anlässlich der Entgegennahme des Literaturpreises" 1972.]、
鼓直訳『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』(現代企画室、1992年)[=Llosa, M.-V. "¿Quién mató a Palomino Molero?" 1986.]、
氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』(岩波書店、1967年)[=Nietzsche, F. "Also Sprach Zarathustra" 1883-84.]、
これらを借りた。

March 28, 2009

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桜木町「のげシャーレ」へ行き、岩渕貞太『タタタ』を観る。私はこの公演に機材提供をしていたので、招待扱いで観ることができた。
作品は2部構成になっている。前半部は酒井幸菜が踊り、10分の休憩を挟んで後半部を振付けの岩渕貞太が踊る。この二つのパートは同じ振付けである。つまり、再現されたものの本性が、反復されたものとして現れてくるのであるが。
舞台の床には白色のシートが敷かれている。照明・音響機材の他に目を引くもののない素舞台である(この「素舞台であること」を強調する為に、舞台奥のコンセント類は有孔ボードの穴までも描かれた紙で覆われている! これは、何もないことを表現する装飾の過剰である)。先ず、観客の静寂を破って、演者が上手奥の扉から現れる。そして腰溜めに俯き、腿から膝にかけてを手の平で叩く。バシバシバシ……と突然、場内に肌を打ち鳴らす音だけが響く。緩急を付けて強く、それから弱く、また強く——といった具合に。やがて観者の聴覚はこの一連の操作によって、どんな小さな音に対しても敏感に反応するようになる。それに伴い、観者の意識は舞台上へ居着くようになる。次に演者は、腰を大きく捻りながら水平方向に回転させる。すると股関節を中心に、パキパキと関節の鳴る音が場内に響く。例えば無音の状態で、何か慎重な身振りを行うとき、関節音が鳴ることで観者の興が削がれることがある。表現されたものに対して肉体の生々しさが勝ってしまう為であるが、この作品では敢えて関節音を効果として提示することで、以降のそういった意識の離れを低減している。そして私が面白いと思ったのは、この動作の後、一部の照明が消された際に、灯体が温度差によって音を発していたことである(これが音響的な操作によるものか分からなかったが、意図的なものに思えた)。なぜなら灯体が発するこのような音も、通常はノイズとして観者の興を削ぐものだから。
それから以後、ビートの強い音楽の導入によって、ダンスの振りは激しく盛り上がりを見せる。誰か「躍動感のある」とでも表現しそうな、舞台いっぱいに駆け摺り回る動きである。が、音楽の過剰な突出によって導入部で作り上げた慎重さは消え失せ、まるで音楽に踊らされているかのような見え方になる。すると今までは緊密に思えた演者と空間との関係が解け、広過ぎる場所で動き回る身体が矮小なものに見えてしまうのと同様に、それまでの緊張感は一気に霧散してしまう、堪えのなさが露わになってしまう。すると観者の集中力もぱっと消えてしまう。だからこの1/3は蛇足に見える。否、これは寧ろカタストロフが過ぎ去って残る疲労感を表現したものかもしれないが、とすれば却って若者らしいありきたりな印象が表立つ。これは本作が、最後に演者が床へ昏倒することで終わる——横たわることは、歩くことや転がり回ることへも連続しているが、横たわったままで終わりを迎える理由には疲労を必要とすることから。
用いられた音楽が明らかにそれ単体で聴かせるつくりであるからその音数を減らす、演者に及ぶ照明効果のコントラストを上げるなどの対応により、上述の演出的失敗に対処することはできただろう。

March 25, 2009

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世界を認識の中へ祓いのけること——この脱魔術化の行き過ぎの裡に、世界は再-魔術化される。芸術が現れるのは常にこの逸脱の地点より、カオスと共にである。とすれば、私たちがこのような芸術の様相から(カオスから作品を分離し)「作品」を見出だすのは、既に先行する脱魔術化の認識を基盤としてのことである。この反射運動によって、脱魔術化を否定的に受け入れ、そして私たちは社会構造の外側に「作品」を見出だすことになる。なぜなら脱魔術化とは見られた限りの社会そのものであり、主観的に経験し得る習慣それ自体だからである。

March 22, 2009

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今日は六本木・ミッドタウン内にある 21_21 Design Sight にて『U-Tsu-Wa』展を観た。
小川待子氏の講演が行われていたからだ。
大体100人ほどの参加者があり、盛況な客数だったと思う。
話題に並行してモニタにスライドショーを表示していたのだが、モニタの設置位置が低いために客席の後方からは画像を見ることができなかった。
モニタの位置を2mほどにするか、プロジェクタによる大画面投影、あるいは客席をひな壇状にすることが必要だろう。
講演会場が出入り口に近い事もあり、途中、参加者以外の客が立てる音が思いのほか気になる。
これはそもそもこの建築が公演に適した場所を想定していないことからくる弊害なのだが。
講演内容はとても興味深いものだったが、企画としては最低である。
個人的には、小川氏の近作についての話を聞くことができた点は収穫だったが、彼女の近作を実際に観ることができなかった点に不満が残った。
公演の後、企画展を足早に観て会場を後にした。
というよりも、企画それ自体には何の魅力も感じなかった。
これは展示内容に先立って、展示方法に対する不満が募ったからなのだが。
まるで平面図上で決定されたかの如き展示方法には違和感を覚える。
というのも、「器」というものは実用品であり、手に取り口をつけて用いるものである。
にも拘らず展示として器と観客との距離が余りにも離れている為に、最早"触れる"という好奇心が萎えてしまうのだ。
そして展示案内を見ると、展示物が何か星座を意図した配置をしているらしいのだが、それが分かるのはやはり平面図の上でのことであり、実際に展示を見ている限り、それを意識することには無理がある。
ましてや水盤や、滝の造作はまるで展示物である「器」との関わりを想像することが難しい、全き無駄なノイズである。
例えば実際的には困難であるが、展示された器を手に取ることができるくらいが好ましいように思うし、またそうでないとしたら器の備える「用の美」は殆ど失われてしまうから。
こういう憤りを感じると忽ちに、ミッドタウンという施設の薄っぺらさが気になって仕方がないのだ。
本当に何もない。
トポフィリア(場所-愛)というものが生じない、単に足早に通り過ぎる為の施設だ。
おおよそ「高級〜」という接頭詞が付く商品が並べてあるが、それは専ら都心外からの観光客向けに設えられた記号の集合体であり、高級指向というものからは離れているように思う。
先ずあれに満足するような輩は成金趣味なのだと思わねばならない。
ミッドタウンとは、そういう"高級っぽさ"を充足する為の施設にしかない。
少なくとも建築的なフェティッシュを満足させるものとは到底思えないのだ。

March 18, 2009

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この日は、一週間に一度の定時上がりの日だ。
日吉の書店にて(日吉駅の書店かもしれない。補記;2012/02/08)、
折口信夫『日本藝能史六講』(講談社、1991/1944年)
を購入した。

March 15, 2009

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この日も
麻布十番へ行き『春の祭典』のソワレを観た。
それから、打ち上げに参加した。

March 14, 2009

作品を観ること、それを語ること

例えばあなたが作品を観て、何か感動や、えも言われぬ満足感を得たとする。あなたはその作品についての素晴らしさを感じて、この感情をどうにかして誰か(他者)へと伝えようとするかもしれない。あなたはその作品から、何か素晴らしいものを手に入れたのだと思うかもしれない。

だが、その「素晴らしい」という感動は、紛れもなくあなた自身の持ち物である。
(このことは「あなたが素晴らしい感性の持ち主である」という讃辞を意味しない)
つまりあなたは、作品において反射したあなた自身の感情について、好き・嫌いや良い・悪いを感じているに過ぎないのである。

だからもし、作品が(あなたに対して)何か新しい感情を与えるのだとすれば、あなたはそれを「素晴らしいもの」として感じるのではなくて、「訳の変わらないもの」として(さらには「見慣れぬもの」や「馴染みのないもの」、「不気味なもの」としても)感じるはずである。

なぜなら、あなたが作品から得る、よく分かるものの感情は、あなた自身の感動が裏返されたものであり、そうであればこそ、作品はまだあなたに対しては何も与えずに、そしてあなたはただ、作品と対峙したまま平行しているに過ぎないからである。
作品の本当の姿(この表現は、幾らかの語弊を含むかもしれないが)は、このような対峙の、その向こう側にあるから。私たちはさらに、この状況からまた一歩、大きく踏み上らなくてはならないのだ。

越境するもの——では一体、作品上の何を踏み上って越えていくのだろうか?
何を越えて、さらなる作品の内部(内奥)へと踏み込んで行くのだろうか?

額縁。土台。
これらを一まとめに指し示す言葉としてパレルゴン(parergon)がある。
「作品」と名指されるものの全てには、必ずこのパレルゴンがある。
なぜなら、わたしたちが「作品」と名指すことのうちには、作品を、それが置かれている環境からは引き離す動きがすでに含まれているからだ。
わたしたちが"それ"を「作品」と名指す。と、すでにこの「作品」は、周囲の環境からは切り離され、作品とそうでないものとに区別されている。
つまり「作品」という名指しは、作品の外形を規定すると同時に、作品それ自体にも触れているのである。

作品の内側から述べること、これは批評だ。
作品を褒めることも、作品についての好き・嫌いを述べることも批評ではない。(その役割はレヴュが担っている!)
作品経験上に何が起こっているのかを(有らん限り)正しく記述し、そして伝えることこそが、批評の担う機能(役割)である。
(『aimai』展@横浜、赤煉瓦倉庫。頒布物に掲載)

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麻布十番にあるスタジオフォンテーヌへ行き、
『春の祭典』(演出: よこたたかお)を観る。
この公演に私はドラマトゥルクとして名を連ねてはいるものの、
作品を観るのは今回が初めてのこととなる。
言うなれば最初期のアドヴァイス以外、私は全く口出しをしていない。
「その割には——」と言ってしまえば彼よこたに失礼だが、
意外にも面白かった。
総尺110分の長さは、まだ彼の技量には荷が重いとはいえ、
序盤から中盤部までの見せ方は中々、
今までに観た彼の作品では一番よかった。

March 13, 2009

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前の職場の人たちと8ヶ月振りに呑む。
その後、今の職場の打ち上げ二次会に参加する。
(よく覚えていない。補記;2012/02/08)

March 12, 2009

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日吉の書店にて、
『軍事研究』(No. 517, Apr., 2009)、
幸村誠『ヴィンランド・サガ』(Bd. 7)、
を購入した。

March 8, 2009

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・地政学と交通地理学とに跨がる軍事地理学を追認すること。
・距離と時間とに対して、速度の優位を謳う未来派の口振りを真似ること。
・移動における時間。

・先ず初めに世界がある。
・次にその世界を発見する、と同時に、こちら側とあちら側とが区別される。
・実に、この世界があることは、境界概念が現れる事後である。
・こちら側の大地。海岸線。眼前の海原と、その向こう側に想起される、あるかもしれない"あちら側の陸地"(彼岸)。
・このような意識の移ろいと共に移動がある。
・或いは、この移動が、こちら側とあちら側の認識に先立って境界線と同時にある。
・境界線がよりこちら側に近いか、またはあちら側に近いかということは、単にこの境界概念がいまだ保留され続けていることを表すに過ぎないか、自身の立てる場所を、それ以外の場所とは依然として分たれている。

・ke-ke-me-na の空間(これが部屋だということは既に分かっている)
←空間という立ち上がりよりも、場という平板さに近い。room=余地

・作品と、それ以外(周囲の環境)とを区別(区分ける)境界——額縁と土台。
・作品に額縁や土台が見当たらない場合にも、parergon は常に、作品とそうでないものとを区分ける。
・作品における、絵画の画面とそれ以外の部分、土台のない彫刻がそれ自身で立てる為の構造(しくみ)。

・画中の人物がありありと生きていること、絵具が生身の人物としては世界に存在しないこととの間、ここに絵具の微笑みがある。
・このような画中に生きる人物と、作品のその人物のモチーフとなった人物が実在している事実とは、最早何らの関係もない。それは作品上に、事後的に形作られる関係である。

March 7, 2009

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この日は、昼過ぎに銀座へ行き、
『DE MYSTICA』展(@なびす画廊)を観る。
これは、以前に Gallery Art Point で催されていたものの第二回目。
それから渋谷へ行き、久々に会う前の職場の同僚(多分、Wtn・Sitの二人。補記;2012/02/08)を含めた3人で呑む。

March 4, 2009

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退勤後、日吉駅に在る書店にて、
浦沢直樹『PLUTO』(Bd. 7)、
を購入した。
久々に眠気でふらふらとする。
頭の中が朦朧とする感覚は、珍しいもので、面白い感じがする。
空腹感さへなければ、ビールを一本ばかり呑んでそのまま寝入っていたことだろう。
だが、とはいえ今夜は早めに眠るつもりだ。

March 3, 2009

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Web作業三日目。翌朝の5時頃に大枠が完成し、あとは細かなフォントスタイルの調整を残すのみとなったところで、Mに投げる。明け方の坂を駆け下ってコンビニへ行き、ビールを買って帰る。Mは恋人を連れて私の家へやって来た。私が作業をしている間、二人は黙々と漫画を読んでいる。BGMは"Sea and Cake"からStravinskyへ。二人の時折交わされる遣り取りが仲睦まじく、羨ましい限りだ。

March 2, 2009

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Web作業二日目。退勤後に渋谷にあるルノワールへ。殆ど進捗はない。引き続き作業をする為に、Mから Power Book と EM の端末とを借り受ける。久々に自宅でのネットサーフィン。回線速度はまあまあ。とは云え光り回線に慣れている身からすれば少々遅くもある。が、充分実用レヴェルには達している。この日は翌朝の5時まで作業。前日に組んだものを、"一から"組み直す。

March 1, 2009

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学部時代からの友人、Mから頼まれたWeb作業の為、打ち合わせも兼ねて、退勤後に新宿のルノアールへ行く。四時間ほどで少なくともベースデザインくらいは終わるだろうとタカを括っていたが一向に捗らず。だが何のことはない、暫くWeb制作からは離れていたから、色々とネタを忘れていた。思ったよりも捗らないことは、意外にもストレスに感じる。引越しの際にweb制作関連の書籍・雑誌類は全て処分したのだけれど、それがよくなかった。と、今更ながら思った。