February 28, 2010

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渋谷に在る中古本量販店にて、
手塚治虫『ブッダ』(Bd. 1-5、講談社)、
を購入した。
それから眼鏡のフレームを購入した。

February 27, 2010

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注文していた自転車を取りに都立大前へ行く。自転車を受け取り、そのまま乗って帰る。帰るどころか、小雨降る中を桜木町まで駆けて行った。まともに自転車に乗るのは実に2年振りくらいのものなのに、それで慣れないロードバイクの固いシートに跨がって、余りに細いタイヤで、車道を走っているのは随分と恐いものだった。

February 24, 2010

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渋谷に在る中古本量販店にて、
手塚治虫『ブッダ』(Bd. 6-14、講談社)、
内田春菊『南くんの恋人』(青林堂)、
を購入した。

February 21, 2010

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東京大学駒場キャンパスへ行き、国際シンポジウム『ドイツ語圏世紀転換期における陶酔と美』、この日の第一部「美的カテゴリーとしての陶酔——音楽と演劇」に参加した。全編に渡り使用されているのは独語。無論私は他国語を得意とはしないので、話題についていくのがやっと、と云った塩梅で。実はこの日、同じ構内で催された知人のミュージカル公演を観る筈が、それが満員の為にしぶしぶ追い出されたから、その埋め合わせにここに参加したのだが。アドルノ、ベンヤミン、ニーチェ! ロース、リーグルなど、レジュメに記載された内容はどれも見知ったかの、慣れ親しんだ話題であるけれども、それがただ独語で繰り広げられたとなればまた状況は異なるのである。どうにも単語が羅列し得るばかりで文法にはカラッキシというのは難しい。日本人同士が独語で議論するのを見て、思わず「ほう!」と感心し、そこに演劇のモチーフを探し当てたりなどして、終いには退屈していたのだけれど、大変に面白かった。
駒場東大前に在る古書店にて、
中上健次『鰐の聖域』(集英社、1992年)、
篠田浩一訳『アデン アラビア』(晶文社、1966年)[=Nizan, P. "Aden Arabie" 1931.]、
掛下栄一郎『瞬間と持続』(紀伊国屋書店、1969年)[=Bachelard, G. "L'intuition de L'instant" 1932.]、
小野忍ほか編『中国現代文学選集 少数民族文学集』(Bd. 20、平凡社、1963年)、
を購入した。
それから下北沢へ。古書店に寄り、
木村榮一訳『ボルヘル、オラル』(書肆風の薔薇、1987年)[=Borges, J. L. "Borges, oral" 1979.]、
柳瀬芳意訳『神の愛と知惠—宇宙創造論—』(静思社、1961年)[=Swedenborg, E. "Sapientia Angelica de Divino Amore et de Divina Sapientia" 1763.]、
柳瀬芳意訳『新しいエルサレムとその天界の教義』(静思社、1963年)[=Swedenborg, E. "De Nova Hierosolyma et ejus doctrina coelsti" 1758.]、
高橋義孝訳『フロイト著作集 2 夢判断』(人文書院、1968年)、
渡辺広士訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』(審美社、1972年)[ポール・ヴァレリー]、
多田智満子訳『ヘリオガバルス または載冠せるアナキスト』(白水社、1977年)[=Artaud, A. "Héliogabale ou l'anarchiste couronné" 1934.]、
これらを購入した。

February 20, 2010

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六本木、21_21 DESIGN SIGHT へ行き、『クリストとジャンヌ=クロード』展を観る。
クリストのデッサンは"印刷されたもの Printed matter"でしか目にしたことが無かったので、それが明白にコラージュだったのを知ることが出来たのは良い機会だった。
紙面で見たときには、彼のデッサンの質感は生々しいと感じていたが、実物の作品を目にする事で、それらがデッサン(絵画)ではなくてコラージュ(彫刻の亜種)であることがよく分かった。このマティエールの"生々しさ"という点を喜ぶべきであるが、このマティエールの生々しさはあくまでそれ自体の質感である。故に、これは描かれた質感ではない。絵画的表現とは、質感を描きとることで、対象の質感を実存から剥ぎ取る行為であるから、彼のコラージュは寧ろ作品中に於ける特異なマティエールを絵画的に塗り込め、絵画である為の平版性を獲得するつもりでいる。作品のカヴァとなっているアクリル・ケースもまた絵画的な平面性を示唆する企図であるが、ではアクリルの平面が画面の(ところで"画面"はどこから始まるのか?)、否、作品の基底面の手前に充分な空間を保持している為に、コラージュとして貼り込められたマティーエールは有無無くその厚みを誇示するのである。が、クリストの作品が言わばランドスカルプチャー的な、まさに"それ"だとすれば、私が今ほど支持した「作品(コラージュ)」というものは実に彼の作品の記録として他立したそれである。とはいえプロジェクトとしては失敗した"作品"、他立する為の紐を失った作品もあるが、ではこれも一つの自立した作品足り得るだろうか。
それからAと合流して、イメージフォーラムにて『ストーカー』[=Тарковский, A. A. "Сталкер" 1979.]を観た。

February 19, 2010

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日吉駅に在る書店にて、
石黒正数『それでも街は廻っている』(Bd. 1)、
かわぐちかいじ『太陽の黙示録[建国編]』(Bd. 5)、
を購入した。

February 17, 2010

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元住吉に在る中古本屋にて、
かわぐちかいじ『太陽の黙示録[建国編]』(Bd. 1-4)、
を購入した。

ファシズム的とされる物言いに於いては「わたし」というものが一つの個性に拠って或る特定の集団を代表するものとして語られる。他方で近年あるような尊大な「わたし」に於いては、個人はあくまで彼(女)の所属していると看做す集団を代表するも没個性によりこの代名詞を支持しようとする。→四人称的
だから殊更に「私的」と当該の集団を狭めるような際に於いては、「わたし」という語についてのこの四人称的な性質の強調がみられる。→積極的な受動性に拠る自己存立
この傾向は、一時の「小集団におけるカリスマの多発」を個々人に於いて継承した、いわゆる"カリスマ"の顛末(成れの果て)と言えよう。これはカリスマが集団から支持されるのに対して、あくまで自分の所属する集団を支持するに過ぎない点に於いては、やはり結局のところひ弱な一個人の横暴である。→小皇帝
「われわれ」とか「みんな」とか言われるものは、今日的な意味合いに於いては結局「わたし」のことである。

February 14, 2010

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Aと連れ立って竹橋、東京国立近代美術館へ行き、『ウィリアム・ケントリッジ——歩きながら歴史を考える』展を観た。最終日ということもあり、それなりに混み合っている。客層に若者の多いことは"映像もの"ということで想像通りであるが、それにしても彼(女)らに混じってちらほら見掛けるあの中年・老年の観客たちは、普段は何を職とした人々だろうか(出版関係か?)、異彩といえばそうも思える。
 展示については、混み合っていたこともあり、大体においては辟易させられた。先ずは「導線」のこと、映像作品が部屋の四面に対して投影される部屋では、鑑賞者らが自然中央に集まりがちとなり、部屋から部屋への自由な移動が困難となる(他の鑑賞者の前を、映像を遮って移動することが憚られるため)、結果人の流れが滞り混み合ってしまう。これは小部屋で一面に対してのみ投影を行う場合でも同様に、鑑賞者は最初上映されている作品の内容を窺い見定めようとするので、やはり自然入り口付近は混み合ってしまう。今回の場合、このように混み合った鑑賞者らの背後をくぐり抜けて移動しなければならない部屋もあったので、面倒は感じた。また、映像展示の場合、映画館でのように作品の初めから観始めて終わりまで観るということが出来ず、途中から観始めて一巡するまで観るという方法に依るので、大抵は途中からでは話の筋が掴めず半ばで観るのをやめてしまうか、或いは一巡するまでの忍耐を試されるか、混み合った困難の最中での鑑賞となり絵画を観るに比べれば随分と手間が多い。まして一つずつ作品を片付けていくとなれば総尺以上に時間が掛かる。となれば同時に複数の作品を並行して観ることが好ましく、さらに一巡までの時間がなるべく短い方が好ましい。このために鑑賞者の身勝手により、作品はなるべく内容が明快で短尺の——まるでTVCMのような類いのものが喜ばれる。が、それでは余りに無味乾燥。例えば長く広い廊下のような、一続きの空間の両側に映像が投影され(幅は15mあれば充分だろう)その中央が2mほどの通路となっている、或いはパノプティコンさながらの上映空間、また或いは一つの部屋で複数の作品を上映する場合でも、別個に上映するのではなくそれぞれの作品を一続きにして幾らかずつズラして上映する(映像を用いたインスタレーション作品では無効な方法であるが)などの工夫は欲しい。私は特に首尾よく作品の鑑賞を済ませたいとする性質なので、効率の良い鑑賞の導線が好ましいと感じる。が、無論、このような"効率主義"こそ無味乾燥と言う輩よ、であれば立ち止まれば善いのだし。次に照明のこと、今回は映像上映がされる暗箱の部屋と、作品に関わるデッサンを展示したプロムナードさながらの部屋とが交互に連続して(まるでムソルグスキー『展覧会の絵』かのように)構成されている。(補記。鑑賞者らの流れを暫し観察してみると、大抵彼(女)らは迫って次から次と映像上映の部屋を梯子し、デッサンの部屋ではそれほど留まらないように感じた。それ故に「プロムナード」)。つまり鑑賞者は一連の作品鑑賞においては暗い部屋と明るい部屋とを交互に、明順応・暗順応を繰り返しながら鑑賞するのだが、当然ながら初めのうちはこの明暗の変化にまだ目が慣れない。最初の映像上映の部屋は多面スクリーンであり、かつ先に指摘した通り導線が不適切なので混み合い、さらに部屋の暗さにまだ目が慣れないでいるので、結果人の流れが滞ってしまう。この部屋は特に混み合っているように感じた(時間帯、入場者数の増減にもよるが、滞りの原因を多く備えている)。そのため、この部屋に限り中央部には薄明かりのある方が具合が良いのではないかと思った。同様にプロムナードの照明は若干暗めに(作品に向かう照明はそのままで)した方が良いだろう。先に述べた通り鑑賞者らの大抵はこのプロムナードを飛ばすので、目は次第に慣れ始めるのだが。三つめに、補足ではあるが映像作品のキャプションはプロムナード側(映像上映の部屋への入口にあたる)に付けるか、紙面として配布するかが望ましい。というのも、相変わらず熱心にキャプションばかり目で追って作品を鑑賞する人は多いし、そのような人々の合間を縫ってこれを確認するようなことは(特に私のような性質にとっては)手間であるから。結論としては、美術館での映像展示においては、その建築的な制約から(基本的には美術作品の展示を主眼に設計されているため。インスタレーション作品に関しては空間的な基底の曖昧な作品が多いためにこの難をかろうじて逃れることが多い、それはそれで作品それ自体の難点ではあるものの)様々な鑑賞上の困難が生じる。先日観た『レベッカ・ホルン展——静かな叛乱 鴉と鯨の対話』(@東京都現代美術館)でも同様。ただ、近年のもので言えば、同じ東京国立近代美術館での『ビデオを待ちながら』展は例外的にストレスの少ない印象の展示だった。
 国立近代美術館では偶然、Ysdさんと遭遇した。
それから表参道へと移動し、青山 EAST and MEETS Cay 「蓮沼執太チーム『ワナパンチ!』ツアー・テン」に行く。快快が『Y時のはなし』プレビュー公演を行うということで、それを観に。久々に快快の面々と挨拶を交わす。相変わらず、基本的に彼(女)らの性状は変わらないのであるが、それでも何か思い掛けず、といった具合に、あれこれ吃驚したようにも感じた。

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ブハーリン:死ぬのはつらいのです
スターリン:我々は気楽に生きていくとでもいうのか

February 12, 2010

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日吉駅にある書店で、
『軍事研究』(No. 528, Mar., 2010.)、
を購入した。

February 11, 2010

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千駄木の「羽鳥書店まつり」へ行く。後で知人から聞いたところに依ると、午前中には殆どが売れてしまったらしく、なるほど私が事前に聞きつけて狙っていたような哲学ものの書籍は殆ど残っていなかった。
『10+1』(No. 15, INAX出版, 1998.)[特集=交通空間としての都市:線/ストリート/フィルム・ノワール]、
同(No. 34, INAX出版, 2004.)[特集=街路 Road/Street]、
小倉志祥訳『反時代的考察 ニーチェ全集 4』(筑摩書房、1993年)[=Nietzsche, F. "Unzeitgemässe Batrachtungen" 1876.]、
Benedikt, M. 編『サイバースペース』(NTT出版、1994年)、
高橋義孝訳『フロイト著作集 3 文化・芸術論』(人文書院、1969年)、
西谷修訳『〈非-知〉閉じざる思考』(哲学書房、1986年)[=Bataille, G. "Œuvres complètes de Georgrs Bataille, tom. VIII, Gallimard, 1976, pp/ 185-243, pp. 563-592./1951-53."]、
松平千秋訳『アナバシス』(岩波書店、1993年)[=ΞΕΝΟΦΩΝ ”ΑΝΑΒΑΣΙΣ”]、
宮下志朗訳『ユリシーズの涙』(みすず書房、2000年)[=Grenier, R. "Les Larmes D'Ulysse" 1998.]、
露崎俊和 他訳『ヒッチコックによるラカン——映画的欲望の経済』(トレヴィル、1994年)[=Zizek, S. "Tout ce que vous toujours voulu savoir sur Lacan sans jamais oser le demander à Hitchcock" Navarin, 1988.]、
大江健三郎『憂い顔の童子』(講談社、2002年)、
これらを購入した。
それから谷中の方へと歩き、古書店を梯子する。
田中美知太郎訳『テアイテトス』(岩波書店、1966年)[=ΠΛΑΤΩΝΟΣ "ΘΕΑΙΘΗΤΟΣ"]、
千田憲編『祝詞・寿詞』(岩波書店、1935年)、
辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』(岩波書店、1970年)、
飯塚浩二訳『人文地理学原理 上・下』(岩波書店、1940年)[=Blache, P. V. "Principes de Gèographie Humaine" 1922.]、
飯吉光夫訳『陶酔論』(晶文社、1992年)[=Benjamin, W. "Über Haschisch" 1972./1930-32.]、
これらと、古伊万里(?)の小皿など雑貨も幾つか購入した。

February 7, 2010

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Aと渋谷へ行き、Tower Records にて、
Oistrakh, D. "Shostakovich, D.: Violin Concerto No. 2 in C sharp minor, Op. 129 / Tchaikovsky, P. I. : Violin Concerto in D Major, Op. 35"(London Symphony Orchestra, 19 Nov. 1967. / London Philharmonic Orchestra, 26 Nov. 1972., BBC, 2009.)、
"Mussorgsky=Ravel: Picture at an Exhibition, Mussorgsky=R. Korsakov: A Night Bald Mountain. Valery Gergiev / Kirov Orchestra, Yuri Simonov / Leningrad Philharmonic Orchestra"(Dec. 1989. / May 1980., Memories Excellence.)、
を購入した。
それから"[シアター]イメージフォーラム"へ行き、タル・ベーラ”ヴェルクマイスター・ハーモニー”を観た。観始めて5分もしないうちに気付いた。既観の作品である事を。

February 6, 2010

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この日は、『鈴木繭子・大室祐介——ピント 焦点』展(@秋山画廊)を観る為に、先ずは渋谷へ出た。Omr君は16時頃に画廊へ行くとの事だったので、それまでは余暇の時間に、当て所無く散歩をすることに決めた。Tower Records へ行き、
Stockhausen, K. "Klavierstück I-XI, Mikrophonie I & II"(Jul. 1 & 2, Nov. 15-17, 1965 / Jun. 11 & Dec 18 &18, 1965., Sony Music Japan, 1967/1993.)、
Münch, C. "Berlioz: Symphonie Fantastique"(Orchestre De Paris, Oct. 1967., EMI Music Japan, 1968.)、
Bastro "Sing the Troubled Beast / Bastro Diablo Guapo"(1989 / 1990, P-VINE RECORDS, 2005.)[Remaster盤]、
を購入した。さらに近くのカッフェで一息吐く。だが、定刻までにはまだ余裕が有る。代々木神宮へ行き、
原宿駅から本殿までを一往復し、それから秋山画廊へ向かった。Hrtさんに会う。
それから代々木、新宿へと抜けて、disk union へ行く。
microstria "reprovisers"(thrill jockey, 1997.)、
V.A. "folds and rhizomes for gilles deleuze"、
を購入した。
それだけに飽き足らず新大久保のアジア食材店まで足を伸ばした。

February 3, 2010

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仕事帰りに電気屋の暖房器具売り場へ行き、そこで束の間往生した。
私は二台在るファンヒータの前で暫く勘案した。左手の一台は、徳川だか明智だか、武張った響きがローマ字綴りにしてあるメーカの。もう一台はコロナ製である。外観としては左のものが気に入った。デザインしてあるらしい、かといって何とも垢抜けない容貌が如何にも暖房器具である。ファサードが見た目にシンプルで、耳馴染みの無いメーカだが、よっぽど酷く無ければこれも有りだ。しかし片やコロナである。先ず確実に動作の問題は無かろう。エアコンであればダイキン製、と言うのにも似ている。そう云えば私の幼少の頃に、「ズックがほちい」と父に言ったら「オニヅカにしなさい」と言われたことを思い出す。私はナイキのが欲しかったのだが、社名に盲目的な信頼を抱く響きの有るのがブランドで、母方の祖父が同様の口振りを大塚製薬について使っていたのが懐かしいが。さて、この二台は殆ど同じ価格である。おまけにどちらも特価なのだ。動作性能は——コロナのカタログはすぐに見付けた。武張った方は陳列棚の端の方で、他の商品の間に挟まれくしゃくしゃになった一部を見付けた。並べて見比べてみると、静粛性なら左であるが熱効率なら右のということらしい。ただし最大動作音ではどちらもさしては変わらない。また、左のメーカは燃焼機関の耐久性を売りにしている。それならコロナ製にも聞き見知ったような信頼性を覚えている。私はこういう比較に熱中して真剣になる。先ほどから売り場の店員が二三度脇を通り過ぎるものの、最早出る幕が無い、といった具合に。

元住吉に在る中古本屋にて、
氷室冴子『海がきこえる』(徳間書店、1993/1999年)[文庫版]、
同『海がきこえるII アイがあるから』(徳間書店、1995/1999年)[文庫版]、
を購入した。

February 1, 2010

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夜に雪が降った。
東京に、このような明らかに雪が降ったと言わんかばかりに降り積もるのは、覚えの有る限りこれが今冬に初めての事ではないかしら。