January 29, 2008

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折口「稀人(まれびと)」とシェリング『人間的自由の本質』に於ける「自由な存在者」とを並置すると、両者の主体性の現れに何らかの神的な「機会」が関わっていることに気が付く。

作品への参与者(主に観者)についてを分析する過程で以前からシェリングの「主体」に着目してはいたが、ここに折口の「稀人」を併せることで、作品を軸とした社会を受容論的に描くことが可能となるだろう。とすれば前述の「機会」は、観者をその鑑賞経験に於いて時代や世代へと関連付ける必須の要素となる筈である。

January 28, 2008

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有楽町へ行った折になびす画廊へと寄りMkさんと話す。
M先生の近況についてを尋ねた。
相変わらず精力的にあちらこちら足を運んでいるらしく、とても70歳を超えた老人とは思えない、話の端々から想像されるM先生の姿にはそう云う印象を受ける。
ふと吉田暁子(作家)の話題に移り、画廊の奥から彼女のポートフォリオを引っ張り出してもらい見る。初期作品に「椅子」をモチーフとした作品の有ることを認めて、彼女の作品に於ける土台にも利部に見られるような或る種の建築の匂いを感じた。片や平面、片や立体と云うような違いこそあれ、それらの根底部は非常に似通っているのだ。
それから帰りしな、隣のギャラリー21+葉にて青木野枝の個展が行われていたのでちらと観る。
その後、銀座中央通りを随分な早足で駆け抜けながら「やはりこの街は面白い」と思った。それは電飾の催すきらびやかな感官についてなのだけれども、このしっとりと土地柄に馴染んだ様子が渋谷の街に比較されるように思い、端的に「東京」と云うものを夢想した。何もかもが皆頼もしく思えたのだった。

January 25, 2008

『想起 アドルフ・ロースへの手紙』展

大室佑介『想起 アドルフ・ロースへの手紙』展を観に秋山画廊(千駄ヶ谷)へ行く。

 彼が大学院に在籍時から憑かれ、常々口にしていたロースの文言を下に引いておく。

「我々が森の中を歩いていて、シャベルでもって長さ6フィート、幅3フィート程の大きさのピラミッドの形に土が盛られたものに出会ったとする。 我々はそれを見て襟を正す気持ちに襲われる。 そして、それは我々の心の中に語りかけてくる。  「ここに誰か人が葬られている」と。 これが建築なのだ。」
[アドルフ・ロース『建築について』1908年]


>>>
 http://www.akiyama-g.com/exhibition/documents/43.html

January 23, 2008

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今日の東京は雪に覆われた。
日頃は「温暖化」の喧伝に不安を掻き立てられている人々も、
この時ばかりは正しい冬のすがたを享受する。
「とは云え数年前ならば、もっと雪も降ったものだけれど」
と云う台詞も詠嘆調の挨拶事となる。
だが近年の夏には、あの童心湧き立つ入道雲も、激しい夕立に追われて軒下に暫し身を隠す興奮もいつの間にか消えてしまった。
ただ冬の寒さだけが年々身に凍み入ってくるが、ふと思い返せば幼い頃の連日の雪には暖かさが有り、次第に春の香りが募る夜明けに身を捩った堪えの無い気分すら、今となっては忍耐の為に擦り切れていく事を想像して無性に悲しくなった。

打ち合わせの為にアゴラ劇場を訪れ、その後で駅前に赴いたら、
雪を被り頭の先からずぶ濡れになった腕白少年と出会った。
「大丈夫ですよ、今朝からこの恰好です」
と私に息巻いて見せた半袖の彼は俄に上気して頬を赤らめている。
が、その姿には思わず彼の肺炎を患う事を憂慮してしまうのだ。

写真に写るのはNbさん。駒場にて。



January 20, 2008

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 ポン・ジュノ(봉준호/Pong Jun-Ho)、ミシェル・ゴンドリー(Michel Gondry)、レオス・カラックス(Leos Carax)ら三氏の共作となるオムニバス映画 "TOKYO!(仮題)" の公開が2008年晩夏に決定したと報じられ、その封切りが「今か今か」と待ち遠しい。タイトルはそれぞれ "Shaking Tokyo"(ジ氏)、"Interior Design"(ゴ氏)、"Merde"(カ氏)。
 "Lost in Translation"(Sofia Coppola、2003年)を観て以来「東京」と云うモチーフにかなり執心していた私にとってはこの上無い朗報。
 特にゴンドリーは、"La Science des rêves"(邦題: 恋愛睡眠のすすめ)での「恋愛」と云うデリケートな遣り取りを全て登場人物にとっての他国語として扱う演出が興味深かっただけに、さらに、彼にとってもおそらくそれ程馴染みが無いであろう日本語を扱いながら「東京」と云う混沌とした(謎めいた?)多文化都市の不条理をどのように描くのか、非常に気になる。
 因みに"Be Kind Rewind"はまだ観ていない。

"TOKYO!" >>>
 http://www.tokyo-movie.jp/

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 Om君の個展の設置作業を手伝う為に秋山画廊へ。
 彼の盟友とも言える利部が、作品の台座(parergon)として建築に依拠しながらも然し歴然として彫刻であるのとは逆に、彼は建築畑の出身にも拘らず、その作品の台座は建築が内包する展示空間としての void に依拠する事でインスタレーションとなっている。
 さて、インスタレーション染みた彫刻作品と彫刻染みたインスタレーション作品との差異、この定義上の曖昧さを超えて明晰に二種類の芸術を分つものは何であろうか?



January 19, 2008

08.01.19_23:13

Shibuya, Tokyo

08.01.19_16:05

Aoyama, Tokyo

08.01.19_15:36

Aoyama (Shinjyuku), Tokyo

January 18, 2008

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下北沢の古書店にて埴谷雄高『埴谷雄高作品集 外国文学論文集』(Bd. 5、河出書房新社、1972年)を買う。

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 私の専門は批評論であるが、その為に批評家に対してするのは作品についての「述べ過ぎ」や「述べ足らなさ」への指摘にしかない。
 それは批評家が作家に対してするのと丁度同じような態度である。決して主観的にでは無く客観的に、批評と作品との距離を適正に調停するのがその目的であるから、私の在り場所は作品の置かれる「社会」に溶け込む。
 結果私は、酷く当たり前の事を口にするに過ぎないのである。

January 17, 2008

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アニメ『墓場鬼太郎』の第2話を観る。
このテンポならば悪く無い。

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雪が降った。
おそらくこれは、東京での初雪ではないか?

January 16, 2008

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川上未映子が『乳と卵』にて第138回芥川賞を受賞。
やった! :-D 
前回に続けて今回も候補に挙がったとき、
「受賞は間違い無い」と感じたから尚のこと嬉しい。

彼女のする大阪弁の饒舌、
これが小説を成り立たせる質料となっている。
他方、あらすじだけで成り立つライトノベルに於いては、
「キャラ」の肉化が質料の役を担っている。
けれどもその「キャラ」と云うものは小説の外側に在る。

January 14, 2008

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新番組『ヤッターマン』を観る。
このアニメは幼い頃に親しんでいたので、リメイク版を観ると少なからず違和感が残る。
ストーリーに横滑りが有るのは『墓場鬼太郎』第1話と同じであるが、
この時間枠であるならば寧ろ適正なスピード感だろう。
ところで、主人公「アイちゃん」の肢体は細身であるが腰骨に幅の有るスタイリングは、今となってみると新鮮だ。
また設定上の年齢が12歳となっている事には驚いた。

January 12, 2008

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 昨年末、1度は会うことに失敗したものの再び、彼女のイタリアへ帰国する直前を縫うようにして会う機会を得ることが出来た。
 駒場アゴラでの簡単な打ち合わせの後にJR御茶ノ水駅前にて待ち合わせ、その少し前に(殆ど同時に)Om君とも待ち合わせて Loos, A.『装飾と罪悪』を手渡す——これは彼の今月末に秋山画廊で行われる個展に用いられる予定だ。
 待ち合わせ場所に現れた日本人の彼女は、私よりも幾つか年上の外国人男性を連れていた。少しばかり4人で歓談し、Om君とは別れた。駅近くのカッフェに入り引き続きの歓談。私は余り他国語を得意とはしない、ましてや喋ることなど全然出来ないのであるから、私は日本語で彼女と話し、それを彼女が適宜イタリア語に通訳して彼とも話した。ここで私の少しも英語の出来ないことを恥じた。が、それ以上の個人的な恥だけは避けたかった——それは他国語に於ける慣用句の運用についてである。
 兎角、そして相変わらず私は時間も惜しんでひたすらに喋り倒した。喋り過ぎたくらいでまだ随分と足りないくらいだった。
 私と彼女とは(そして当然ながら彼とも)初対面であった為に、始めのうちは自己紹介のようなことをしながらも話は少しづつ美術のことに移行する。と云うのも、彼女は現在イタリアで美術を勉強していて、Arte Povera への趣味を私と同じくしていたから。のみならず私の敬愛する彫刻家・長沢英俊氏の昨年 Galleria Stusio G7(Bologna)で行われた個展に、彼女がアシスタントとして参加していた事も縁深かった。
 最近の日本に於ける美術動向の話をしながら、話題は次第に日本の文化的傾向の変化についてや現代人の主観主義化傾向、自動車のプロダクト・デザインにみる文化的な比較、天皇制に於ける宗教的な側面、重力、触覚、"軽さ"と飛躍、都市部の建築や都市計画についてなど、次々に変幻した——それらは殆ど、私の「東京」への興味に費やされた。
 暫くして、彼女の次の待ち合わせの時間も差し迫っていたので、3人は銀座へと足を移し丁度日の重なった exhibit Live & Moris で行われている「ラディカル・クロップス」展(グループ展)のオープニング・パーティに顔を出した。ここで彼女から土台・額縁に関する所謂 parergon に関する言及の有った事に、私は彼女の問題意識との親和性を感じた。
 彼女らを銀座駅の入り口まで送り届けてから再び会場へと戻り、親しい作家と歓談しながら、場所を新橋の居酒屋へと移して引き続き美術に関する雑多な話題で盛り上がる。私は挨拶がてら顔を出すかのようにその場からは早々に立ち去った。
 それから皇居を迂回するようにして山手線外回り、渋谷を経て下北沢、小指値・舞監との顔合わせも兼ねたスタッフ・ミーティングに出席。

January 11, 2008

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夏目漱石『硝子戸の中』と寺田寅彦『柿の種』、
夏目漱石『こころ』と島田雅彦『彼岸先生』(及び、同『彼岸先生の寝室哲学』)、
『彼岸先生』と筒井康隆『文学部唯野教授』(及び、同『フェミニズム殺人事件』)。

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 ノイタミナ枠の新番組『墓場鬼太郎』(原作 水木しげる)を観た。絵柄はポップであるが、話のテンポに溜めが無く横滑りしている。動画の出来も良いし、陰影に於ける版画調の質感も熟れていて悪く無い。(『怪 〜ayakashi〜』の初見に、絵に用いられた千代紙の質感が新鮮だった)観ていて楽しみはしたがすぐに飽きてしまった、この回を再び観直そうとは思わないだろう。
 近頃の漫画も随分と絵柄が洗練されてきたが、それに伴って漫画を読む楽しみも失われてしまった。これは弁士のいない紙芝居をただめくっていても何の面白味も無い事に似ている。また近頃のTV番組にあれだけ大量の字幕が用いられている事とも関係が有る。物語に於いてエグ味や渋味、濁りが失われると、あらすじだけが残りデザイン的には洗練される。が、それでは余りに浅薄である。
 小説と云うものが何故あれだけ長いのかといえば、あらすじを用いて不鮮明なものを解きほぐさんとする為であるけれども、それを読み解く為に必要な忍耐と云うものを近頃の人は余りに好まない。又、作品のもつ「強度」は、このような不鮮明なものにより実現されている。
 とすれば何故、近頃の人があれほどまでに触覚について執心するのか? おそらく主観主義傾向への偏重と、それにより先ず「分かる」と云うことへの渇望が有るからに違い無い。が、意識的な訓練無しに理解出来る程「分かり易いもの」も世の中にはそう多く無いから、昨今の消費傾向過多の風潮もそろそろ一段落する筈である。(昨年『カラマーゾフの兄弟』がベストセラーとなる珍事が起きたが、それは教養主義的な反動によるものだろう)
 とは云え、これはまだ第1話目であるから総括を下すには時期尚早であるし、それに今年の新作アニメには社会の新たな転換がいち早く実現されているようにも思われるのだから、あと暫くはこの状況を静観していようと思う。

January 10, 2008

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新番組『のらみみ』を観る。
これは明らかに子ども向けのアニメだろう。
深夜枠での放送なんて勿体無いと思う。

January 9, 2008

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新番組『狼と香辛料』を観る。
悪くは無い。

January 8, 2008

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小指値の役者・スタッフ顔合わせのミーティングの為に下北沢へ。
その途中、代田橋に寄り稽古の様子を窺いにも行く。
初音映莉子さんの美人振りに圧倒される。

January 5, 2008

——, Even.(——, même.)

「環境問題がシリアスなものじゃなくなって、ポップになったけれど、それがスタイルとして消費されることには抵抗がある。
 僕は"LOHAS"が大嫌いだ。ただしそういう気分が分らないわけでもない。おそらく誰もが——例えば砂漠なんかに行けばきっとそういう気分になる。けれども日本人にそういう感覚が実感されるかについては疑問だ。東京にいれば何だって疑わしく思えてくる。それは、日本人にとって、海外旅行がもはや日常のこととなったからだろうか。少なからず僕は「LOHAS的なもの」ってヤツが嫌いなのは間違いない。だってそれは余りに紛いものだから。
 僕はモダニストになりたいと思ってる。今さら? そんなことはない、きっとみんな繋がり過ぎているんだと思う。もう何やったってみんな繋がってる、そういうことへの嫌悪感ぐらい、きっと誰だってあるんじゃないか? 僕がそう感じるように君も同じようにそう感じてるって、でも、そういう事実ってひどく疑わしいものに見えてこない? 何か、自分の認識の手前に、既に事実が用意されている感じ、そういう浮遊感ってやつにもう随分と前からすっかり居心地が悪くなっているんだ。
 そうでなければ、今にみんなファシストになっちゃうよ。」

——というような夢を見た。
夢の中で思い出しでもしなければ、この気分が現実に表れることも無かったのかと思うと大変に悲しかった。

January 3, 2008

January 2, 2008

January 1, 2008

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 帰郷して実家にいるときは、私には家の奥まった場所に在る客間が寝泊まりの場所として与えられる。この部屋は8畳間、正方形で、その中央に蒲団を敷き" ぽつねん"と眠ることになる。すると丁度ヘソの上あたりに、天井から吊ったような傘付きの蛍光灯が在り、寝る際にがちゃがちゃと紐を引っ張って明かりを消し蒲団の上に伏せって目を閉じると、目蓋の裏に先程までの眩しさが輪っかのように瞬く、それが序々に、血流のようなモヤへと姿かたちを変じてゆくのである。

08.01.01_20:28


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『電脳コイル スペシャル』(ダイジェスト編)を観る。