July 26, 2008

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「ある動物がなにか他の動物を食べるときに与えられるのは、いつでも食べる動物の同類である。この意味で私は、内在性と言うのである。
 つまりそれとして認識された一個の同類が問題になるわけではないのだ。食べる動物は、食べられる動物に対して超越性としてあるのではない。おそらくそこにはある相違はあるのだけれども、他の動物を食べるこの動物が、その相違 différence をはっきり肯定しながらその他の動物に対立するということはありえないのである。」
[Bataille, G. "Théorie de la Religion" Éditions Gallimard, 1973.=湯浅博雄訳『宗教の理論』筑摩書房、2002年。]

「ある種類の動物たちは、お互いに共食いすることはない……。なるほどそれは正しいけれども、大鷹が雌鶏を食べる場合に、われわれがある物=客体 objet をわれわれ自身から区別するのと同じような仕方で、大鷹がその雌鶏を自分自身から明確に区別しているのではないとしれば、それはたいした重要さを持たない。そういう区別がなされるためには、物=客体がそれとして定置されることが求められる。もし物=客体が定置されていないならば、補足しうる差異は存在しないのである。動物にとっては、時間の軸に沿ってずっと与えられているものはなにもない。物=客体が時間の内に、つまりその持続がそこにおいて捕捉されうるような時間の内に存在するのは、われわれが人間としてあることによるものであり、ちょうどまさしくその度合に応じてそうなのである。ところが反対に、別の動物によって食べられる動物は持続に至る手前に与えられており、それは消費され、破壊されるけれどもそうした動物の消滅とは、いま現在の時間の外にはなにものも定置されていないような一世界の内における消滅に過ぎないのである。」
[ibid.]

「たとえば誰かが料理を、ローストかグリルを用意しているとして、肉が調理されているときとテーブルの上でそれが食べられるときのと間には切断があります。食べることと調理することとの間には不均衡があるのです。この不均衡は、これは言っておかなければなりませんが、とても重要で本質的な何かです。この切断が人間と動物とを区別しているのです。動物はすぐに媒介なしに食べ、その食べ方は貪欲です。つまり動物は延期しない、原則として何ものにも後に延ばすということはありません。食物がなくて空腹になれば、動物は食物を捜しにいきます。空腹だということと食物を捜すこととの間に違いはありません。食物は見つかりさえすればすぐに食べられるわけですから、食物を捜すことは結果に従属した時間ではありません。」
[Bataille, G. "Conferences 1951-1953 Œuvres Completes, Tome VIII)" Editions Gallimard, 1976.=西谷修訳『非-知』平凡社、1999年。]

July 21, 2008

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 「白痴」と云う言葉から、即座に「娘」や「少女」のような年端も足りぬ女の姿が想像されるのは何故だろうか。私にとって「白痴」の意味するものが、女性にでは無く「女」と云う形象へと直裁に結び付く事は不思議に思える。この言葉から想起され得るものは、即ち「女性」と言われるような確固たる女として確立された人格にでは無く、それから幾分かの或る欠如を伴ったものとして立ち現れるものでなくてはならない、と云ったふうに。それについて、一つは私の自意識の表現形が歴然として男性的であると云うこともあるのだろうが、寧ろ彼女の年齢を理由とした私に対する従属の強制を、彼女を意のままに使役したいと云う願望から導き出す為なのかもしれない。
 例えば、或る女性に対して、私は彼女を己の娘として迎え入れたい欲求に駆られる事があるが、その場合に彼女を私と同格の世代に据えずその下の世代に留めておこうとするのは何故か、と云う不思議にもこの疑問は通じているように思われる。

July 20, 2008

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 この日は来月下旬に公演日を控えた『ペトルーシュカ』の会場を下見する為に、関内へと足を向けた。毎日の通勤路をそっくりなぞるようにして、明日もまた同じ道程を辿るというのに、歩き馴染んだ経路を足早にこなし日吉を更に越えて横浜へと至る。会場となる ZAIM に着くと、先に下見を終えたSd君(彼はこの公演では照明オペレーションを担当する)と合流し、夏の暑さを避けて近くのカッフェへと逃げ込んだ。そこで暫く、照明プランについての打ち合わせをする。再び ZAIM に戻り、プランの確認をする。用事を済ませた後、駅の近くでビールを飲みながら彼と世間話をして、それから電車に乗り私は新宿へと向かった。その途中までの経路を同じくする彼は新橋で下車し、私は東京駅で中央線に乗り換えた。
 次の打ち合わせまではまだ暫く時間が余った。それまでをどのようにして過ごすかが目下の緩慢な悩みどころとなった。私は駅周辺をふらふらと経巡って中古CD屋に入った。すると、偶然居合わせたKndさんとFjtさんとを運善く暫しの話し相手として掴まえることになる。不思議なものだ。Kndさんから彼の個展の観覧チケットを貰った。彼らとの会話の中で知人の近況を伝聞形で窺いながら、頃合いを見計らってその場に別れを告げた。次に再会するのはいつになるだろうか?
 それから数店舗を気の赴くままに梯子して、新宿二丁目へと行きまたビールを喉に流し込んでなけ無しの羽を伸ばした。靴底にも霊感を! とは云えここでようやく尻餅をついたような恰好になったので、私は店先のテーブルに寄り掛かり自らの陰気さのことを若干だけ気にしながら、少しの間は照明プランのことを考えていた。そしていま思い返すと身悶えするような拙い私の他国語を恥じながら、周囲を銘々に陣取る他国人の会話に耳を峙てていた。そこでYkt君と待ち合わせ、定刻に他の打ち合わせのメンバーとも合流して、なんやかんやと話し合いをし始めた。

July 19, 2008

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 今日は晴れていたので、洗濯物を済ませる。久々に生活の為に時間を砕いた。陽射しの下を少し動くだけで全身から汗がわっと滲む。春先の陽光を煮え切らない梅雨空の下でやり過ごしながら、気が付けば夏の季節に急き立てられている。
 それから、自転車に乗り駅前の市立図書館へと行き、借りていた書籍を返却する。代わりに、
Nancy, J.-L./Bailly, J.-C. "La comparution" Christian Bourgois, 1991.=大西雅一郎/松下彩子訳『共出現』松籟社、2002年。
Deleuze, G. "Un Nouvel Archiviste" 1970. / Foucault, M. "Theatrum Philosophicum" 1970.=蓮實重彦訳『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』叢書エパーヴ、1975年。
Guattari, F. "La Lévolution Moléculaire" Éditions Recherches, 1977.=杉村昌昭訳『精神と記号』法政大学出版局、1996年。
これらを新たに借り出した。
 駅前の通りからは少しだけ外れて、この辺りでは最も未来的な匂いのする錆び付いた歩道橋の上に立ち、そこから片側三車線もの広々とした車道を見下ろした。たったこれだけの隔てが風景を途端に大雑把なものにする、空は青く広くそして人の流れはずっと緩慢である。直下に向かい降り注ぐ夏の陽光は、屢々白昼夢のエア・ポケットを用意している。自動車の流れは悠長で、ただそこに留まっているようであるか、或いはじっとこちらへとにじり寄って来るように思える。だらだらと続く上り坂を、延々と蹴り上げながら登り、山王下を迂回し、中沢から唐木田へと抜けて、また段々と空は開けを増し丘陵のかたちは序々に極まってくる。そして、そこからは暫くの道程を下り坂が続く。壊れかけた自転車のブレーキのことを気に掛けながら、殆ど同じ斜度で、右に左にくねる車道を駆け下りる。忍耐に気遣うように、同じ角度を見詰めたままひたすらに地面との着地を心待ちにしているような気分になった。
 やがて近所の古書量販店に着き、
大塚英志『木島日記』(2000年)、
大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(1972年)、
id.『「救い主」が殴られるまで』(1993年)、
id.『揺れ動く〈ヴァシレーション〉』(1994年)、
id.『大いなる日々に』(1995年)、
を購入した。
大塚英志のものは、私が高校生のときに『多重人格探偵サイコ』のノベライズを読んで以来久々となる。
 そこから川沿いの遊歩道をひたすら疾走する。仄明るい夏の夕暮れに、街灯よりも暗いライトを点けて、今度はレンタル・ビデオ店へと向かった。途中、スーパーの店先に寄り掛かりながら真っ当な夕食のことを考えたりもしたが、それまで飲んでいた炭酸飲料の為に、とうとう食欲から喚起されることも無く豊かな食生活の実践は不発に終わった。
GAINAX『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987年)、
STUDIO4℃『Genius Party』(2007年)、
Christian Volckman "RENAISSANCE"(2006年)、
これらを借りた。
——『王立宇宙軍』を初めて観たのは、確か17年前のことになるだろうか。この作品の舞台となる世界は、或る部分では私たちの棲まう現実よりも進歩し、或る部分では遅れている——異形の可能性の裡に描かれた同時代なのだ。物語は、人類初の有人衛星の打ち上げを軸に、幾つかの紆余曲折を経て、その成功からの達成感を以て突然終わる。私の脳裏に深く染み付いていたのは、主人公シロツグが発射台を眺めながら「ハリボテの歌」を口ずさむシーンであり、最近になってやっとそれが何と云う作品の一場面であるかを知ることとなった。当時の幼い私の記憶を鑑みても、それは余りに断片的な印象にしかない為、再び符合を得ることには随分と困難を要した。それに、私の記憶に於いてこのシーンは物語の冒頭部に位置している筈であったが、実際には殆ど終端部にこれを発見することになる。
 帰宅して、DVDを観ようとTVを点けたら、画面に Karajan カラヤンの姿が映し出された——Mozart, D minor K. 626 "Requiem"、このプログラムの放送開始時刻から40分ほど経った一場面に、——カラヤンと云えば眼を瞑って指揮をするという印象が強いが、これは眼を開けたままのものだ。1986年、Wiener Phil.——思わず釘付けにされたのだった。

July 12, 2008

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近所の古書量販店にて
弐瓶勉『BLAME!』(Bd. 3, 4, 6, 7, 10)、
手塚治虫『三つ目がとおる』(Bd. 8)、
高橋和巳『わが解体』(1971年)、
島田雅彦『アルマジロ王』(1991年)
を購入する。

 窓を開け放ったまま昼寝をしていると、私の身体は夢を媒介としながら序々に大気の状況へと消え去ってゆくのだが、このようにして確立された夢の中の世界は、次第に私の想念へと収束していった。そして不意に夢は途切れた。私は依然として夢現の最中に在りながら、外界の状況でも確認するかように、深く内界へと落ち窪みつつ窓の外を見遣った。雨が吹き荒び、雷鳴が轟き、およそ重力がこの世界の原理とはなり得ないほどに、私の立てる理由はすっかり横流しにされていた。凄まじい嵐だった。びいびいと唸りを上げる突風は私の部屋の方形に捩じ曲げられながらも、その周囲を取り囲むようにして、眼前の栗林の樹々を殆ど根元から真横に押し倒していたが、寧ろそれにより栗の樹の具えるしなやかさが私の重力を恢復するための強情な彩りを露わにしているとも思えた。私はそのような或る外界の状況を眺めて、吹き荒ぶ風にすっかり横倒しにされたままに立てる己の姿を何度も幻視した。そしてまた深い眠りに就いた。

July 4, 2008

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「幽霊というのは私の関心事であり=私を眼差しており、もしおまえが生をもって、phantasmagoreuein〔幽霊ヲ語ル〕の言語行為でもって、それをおこなってもうまくゆかない。回り道という骨の折れる試練を経由しなければならないのだ。実践的諸構造を横断し変形travailler〕しなければならず、実在的、「経験的」等々の現実性が持つ確固とした媒介を横断し変形しなければならないのだ。さもなければおまえが追い祓えるのは身体の幽霊性のみであって幽霊の身体そのものではないだろう。」
[Derrida, J. "Spectres de Marx: L'État de la dette, le travail du deuil et la nouvelle Internationale" Éditions Galilée, 1993.=増田一夫訳『マルクスの亡霊たち——負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル』藤原書店、2007年]