March 30, 2008

untitled

 30日の東京藝術大学に於けるネグリ関連イベントには随分とがっかりさせられた。私はその冒頭部をインターネット中継により試聴し、そして結局は15時からのイベントに行く事を止めた。本郷東大にて友人が催した花見に顔を出す。途中、秋葉原に行き、4/3から "101Tokyo" の会場となる旧錬成中学校に立ち寄る。まだ全くの準備段階であり、ボランティア・スタッフが忙しそうに動き回っている。各員の役割分担が上手く連携されていないような印象を受けた。当日は少しまごつく場面を目にするかもしれない。会場を後にし、末広町から湯島へと歩く。小雨に降られる。不忍池を脇目に湯島天神への坂を上る。本郷東大の桜並木は薄く雨に濡れしんと静かである。友人たちはその傍らに陣取って既に酒盛りを始めていた。気温は序々に下がり、少しばかり凍えてくる。桜の花の咲き誇る枝振りの向こうには安田講堂が見える。それを眺めながら、前日に催された東京大学に於けるネグリ関連イベント姜尚中・上野千鶴子対談の事を想像し、寧ろ娯楽としてはこちらのイベントの方が面白かったのではないか? などとも考える。それから、私は連れ立っていた恋人と一緒に代々木上原へと行き、柿内崇宏『環状8号線∞ ——内側から外側へ 外側から内側に』を観る。多摩美術大学映像演劇学科出身の作家による自主制作映画。会場では私の知人や友人の又友人たちと歓談する。作品の内容は、登場人物たちがだらだらとした会話を続けると云うもので、繰り広げられていく話題には脈絡が無く、場面が淡々と移り変わることで次第に時間と場所との関連が忘却されていく。途中、VHSテープに対するノスタルジックな態度も見られたが、上映後に作家から話を聞く限りは、どうやらそれは主題の随伴線らしい。尤も、率直に、初めて映像装置を手にした時の拙い感動と驚きの事を想起しながらこの作品を鑑賞するべきなのではないか、とも思った。端的に、「眼前の世界が映像として置き換えられる事は不思議だ」と云う視座は、日常生活に於いては屢々失われがちであるから。

March 29, 2008

untitled

善し悪しを通り越して、好き嫌いでしか語り得ない絵画を
私は"失語症絵画"と呼ぶことにしよう。

例えば林檎の描かれた絵があるとする。
この林檎は赤い、そして中央に大きく描かれている。
「この林檎は、あなたの心を表している。」
などと作家が言いはじめたなら、これを眉に唾して聞くべきだ。

この林檎は、右上に描かれた小さな手によって、握られようとしている。
この手は果たして握る手か? それとも林檎を放り投げる手か?
そういう問いを失語症絵画は、実に無化している。
紛れも無くその絵画にとって、それはどうでも善いことだからだ。
作家のエゴを極端に通したら、観者の解釈もどうでも善くなった。

だからそういう作品は、他の作品との比較を嫌がるし
さらには作品の内部に於いても対比や差異を必要としない。
そういうやり方で、唯一性を手にしている。

こういう絵画を前にして、作家はオリジナリティーを口にするが、
出来事による唯一性というより、キャラクター性を全面に押し出している。
つまり、それらの作品は複数化しうる訳だけれど
一つ一つ、表情が違うんだ、つまりそれはシリーズなんだ、と
作家はその絵を前にしてしたり顔だ。

いうなれば、その絵に対して何も言って欲しくは無い訳だ。

(2006.3.28)


March 27, 2008

untitled

後輩のNmさんから1ダースもの缶ビールが送られてきた。
宅配員から手渡された段ボール箱は、小柄だがずっしりと重く、開封するまでその中身が何であるかは分からなかった。
(最初は、彼女が私に返却し忘れた照明機材であるかとも考えた)
箱の中で揺すられてバラバラに崩れた缶ビールの束を目にしたとき、私は思わず笑った。
そこには手紙も同封されていない、何故にこの1ダースの缶ビールが私の許へと送り届けられたのかについてを理解することが出来ず、私は暫く戸惑った。
(そして直ぐ後に、伝票の品名欄に書き添えられていた「happy birthday.」の文言に気が付いた)

有り難う。
私はあなたに対しては特に何もしてやれなかった情けない先輩であるけれども。

March 25, 2008

untitled

 折口信夫『死者の書』を久々に読み返した。折口は『国文学の発生』や『言語情調論』ばかりを読んでいるので、たまに論述ではない彼の文章を読むのも楽しい。『死者の書』は、私の感覚からすれば幾らか読点が多めに打たれていて、喉を使って読むと閊えたようなリズムになる。が、それと同時に実に滑らかな日本語の語調も伏蔵されていて、この闊達な言い回しには屢々感じ入ってしまう。

 本屋で立ち読みした『KAWADE道の手帖 横尾忠則 ー画境の本懐ー』が非常に面白い、寄稿者のラインナップを目にしただけでその事が容易に想像出来る。但し、今このタイミングで横尾を扱う事は少々遅い、それ故に「横尾再考」の態を成している事は残念である。とは云え特集本のような真新しさは感じられないが、企画としては興味深い。それにしてもM先生『画狂人が神秘に触れると?』のグバイドゥーリナに寄る一節には笑った。相変わらずの奇矯振りである。

March 23, 2008

untitled

春の陽気はすっかり我が物顔をしてやって来た。
辺りには花々が咲き誇り、山の端の色彩は序々に白味を帯び、霞掛かってくる。
それ(es)に在る気分(stimmung)は紛れも無く「春」である。
その「何ものか」が私に語り掛けてくる。
実に慌ただしい、まるで「紙だ、インキだ」と云う具合に成る。
私は「それ」についてを何一つ残らず、余すところ無く書き記すつもりで居る。
冬の風景に於いて発見されたものが次第に確信へと変じていくのである。
私の抱く予感——もの自体(Ding an sich)に孕まれていた時間が充足理由律の上に書き記されていくこと、私の所有する発見。
私の頭上に吹き荒ぶ風、私は「春」を発見した、私の心の真ん中を貫いて、春雷は私に霊感を与える——と或る"予見"、この穏やかならぬ騒めき——騒々しさ、この何ものかが私の眼前で喚き立て、私はそれを注視しながらも地団駄を踏む。

私の夢、私の錯覚は、この晴れ渡った空色の如く鮮やかで、澄み切っている——と云うような夢を見た。

March 22, 2008

untitled

東京国際芸術祭2008『アレコ』ほかを観る。
UPLINKにて渋谷慶一郎 "filmachine" についてのレクチャーに行く。

March 20, 2008

untitled

 3/20の朝日新聞朝刊(37面)で知ったのだが、アントニオ・ネグリ氏の来日が急遽延期(事実上の中止)となった。それに伴い、ネ氏来日に因んで企画されたイベントも中止又は内容の変更等が為されるだろう。
 今回の事は、端的に言って非常に残念である。

 尚、下記 url には、ネ氏来日中止に関する詳細と氏よりのコメント文が掲載されている。

財団法人「国際文化会館」>>>
 http://www.i-house.or.jp/jp/ProgramActivities/ushiba/index.htm

 これを読むと、20日に日本への渡航を控えたネ氏に対し、その直前に突如として法務省から彼の入国に横槍が入った事が窺える。この措置について、ネ氏が「出入国管理及び難民認定法」の第5条4項(「上陸の拒否」)「日本国又は日本国以外の国の法令に違反して、一年以上の懲役若しくは禁錮又はこれらに相当する刑に処せられたことのある者」として日本法に抵触する事がその理由とされた。
 ネ氏は1979年、「赤い旅団(Le Brigate Rosse)」によるアルド・モーロ元首相誘拐暗殺事件への関与に対する嫌疑から逮捕・起訴された。その後、この件についての無罪が確定するが、彼の政治的な影響力を危惧したイタリア政府は新たに「国家転覆罪」を適用する。彼はその裁判中の'83年にフランスへと逃亡・亡命し、'97年にイタリアへ帰国、監獄に収監され6年間の禁固刑を受けている。
 今回の措置はこの事柄を受けてのものであるが、前述の第5条4項には「ただし、政治犯罪により刑に処せられた者は、この限りでない」ともあり、法務省はネ氏に対して彼が政治犯であったことの正式な証明を求めていた。が、彼がその証明を即座に行なうことが時間的にも難しい為に、今回の来日が中止とされたようなのだ。これについて、素人考えからは「国家転覆罪」が「政治犯罪」では無いと云う事には少々奇妙な印象を受ける。(フランス政府はイタリア政府からのネ氏身柄引き渡し要求に際して彼を政治亡命者としては扱わなかったのだが、彼がイタリア国内に於いて不実の政治犯の身であることは最早公然の事実であろう)只おそらく、この例外を適用するためには、どちらにせよ関係書類の用意が必須なのだろう。
 「アントニオ・ネグリ来日プロジェクト」と銘打たれ企画されたイベントのうち、東京芸術大学で催される『ネグリさんとデングリ対談』については、このまま企画を継続して欲しいと思う。今回の一連の自体を踏まえた上で、何らかのアクションが起こることだろうから。

March 19, 2008

untitled

 「芸術」や「美術」、「デザイン」について、以前から用いている意味内容からの変更は無いが、ここで簡単にそれらの差異についてをまとめてみる。

 先ず「芸術」は「美術」をその範疇に含むものとし、「デザイン」について対比される。主に彫刻や絵画などの空間芸術を指す。因みに私は、美術とその他の芸術との区別を余り明確には意識しない。ジャンル(範疇)とはその場限りの便宜的な区分であり、それを数多の芸術作品群に対して適用する事は可能であるが、個々の作品一つ一つについて、それらが個別に属するジャンルは必ずしも作品それ自体が自立する為の明晰な理由とは成らない。何故なら「作品」とは、作品それ自体で合目的であるような対象であり、個々の作品は作品自身が備える parergon(額縁)を根拠に他の作品とは区別されるからである。
 「芸術」については "Beaux-Arts"(自由なアート)を、「デザイン」については "Lohnkunst"(報酬のアート)をそれぞれの基本的な概念として充てる。これらは単純に、 "physis"(所産)と "techne"(技術)との対立に対応している。また、カント『判断力批判』第43節の冒頭にあるように「技術が自然から区別されるのは、行為(facere)が動作或ははたらき(agere)一般から区別され、また技術の所産或は結果が"作品"(opus)として、自然の作用(effectus)〔による成果〕から区別されるのと同様である」として、技術(Kunst/Art)は自然の所産から区別される。ここで重要な事は、芸術に於ける所産と神の所産とが並立しているかのように見えると云う事である。その為に芸術作品は全きオリジナルなものとして世界に現れる。(このような「所産」についてはデリダ『エコノミメーシス』を参照。尚、この著作に見られる「太古の〔記憶以前の〕時代の無意識状態[inconscience]」や「天才は神の産出的自由に同化する」と云う件にはシェリング『人間的自由の本質』へと至るモチーフが予想される)加えて、作家の「同時代性」と云う事を鑑みる為には、「時代」に奉仕する道具的な性質を備えたものとしての「デザイン」についてを考慮しなければならない。この「道具」とは、作品素材であると同時に、それの魅力により鑑賞者の注意を喚起するような表象であり、換言すれば、作品の表象に於いて副次的な要素として看做されている「質料」及び質料性のことである。(このような「質料」についてはハイデガー『芸術作品の根源』及びデリダ『パレルゴン』を参照)作品に於ける「デザイン的な要素」は、鑑賞者の所属する時代性に追随し見慣れたものとしての親しみ易さを提供すると共に、作品が社会に於いて受容される為の要素でもある。
 一先ず、作品と云う自立的なものの"自立性"が芸術であり、そのような自立的なものが社会に於いて受容され共有される為に結ぶ"関係性"がデザインである、と定義しておく。だから厳密に言えば、作品に於ける芸術性とデザイン性とは不可分の要素である。

March 15, 2008

就 Ginger。

今日は掛川(静岡)にて Segway の試乗を行った。

#
 Segwayについて。1ヶ月と少しばかり前に初めて Segway に乗る機会を得たとき、私はそれを目の前にしてひどく興奮していた。それは別に宙を走りなどしないが、紛れも無く未来の乗り物のかたちをしていた。電源を投入し、ステップに片足を載せた時、内蔵されたオートバランサが起動してぐんと自立する様はまるでSFの乗り物であった。恐る恐るもう片足を載せる、すると左右に付いた車輪だけで倒れずにぴたりと静止している。そこから前後に傾ければするすると走り出す。さらにハンドルを傾けることで、思いの侭にこの乗り物を操る事が可能となった。このような巡航速度30km/hの歩行様式により、今迄の都市論がすっかり書き換えられていく予感がした。

(2008.5.11)


March 14, 2008

『WKM/OO』、『ABCDの素晴らしき世界』

 以前から気になっていた "Art Center Ongoing" へ行き、東野哲史『WKM/OO』展を観る。駅からは少し離れた場所に在るが、別段迷う事も無く辿り着いた。1階はカッフェ、通りから硝子越しに内部の様子を窺う事が出来る。2階は展示スペースとなっていて、作家十数名のポートフォリオを閲覧出来る小部屋が併設されている。木造の構造体が剥き出しとなった空間。全体の雰囲気は "appel"(経堂)にも似ていた。
 さて、今回の『WKM/OO』展に就いて。入り口の硝子戸を開けて直ぐの少々傾斜の急な階段を上ると、「ワカメ、ワカメ……」と云う声が音楽混じりに聞こえてくる。先ず正面の壁に人形を成した乾燥ワカメが無数に貼付けてあるのが目に入る。次いで床に、漫画『サザエさん』のキャラクター「ワカメちゃん」の髪型を成す、これまた乾燥ワカメが敷き詰められている。そこから歩み出て窓の方を見遣ると梁からワカメちゃんの髪型を模したウィッグが鈴生りと成って吊り下がっている。これは機械仕掛けとなっていて、モーターが甲高い音を鳴らし回転を始めると、このウィッグの束が理由無さげに数回ばかり上下する。暫しの沈黙、そして再び上下運動——かなり滑稽である。その脇には所在無さげな飾り付け。足下にはTV、先程の声はここから発されている。短尺でループする声と音楽、終始鳴りっ放し。それから3階へ、またしても少々急な階段を上る。行き止まり、その壁には小さな台が設えてあって、延びきった乾燥ワカメと白濁した水の入った硝子コップが1つ置いてある。軽い溜め息を吐いて再び階下へ、壁面の人形乾燥ワカメ群に暫しの間ぢっと見入る。近寄ったり離れたり、眺めているとシャーロック・ホームズに登場する「踊る人形(Dancing man)」の事を、或いはジョエル・シャピロ(Joel Shapiro)の小躍りする人形のブロンズ作品を思い出す。生々しく透明色のボンドが糸を引いたまま残されている。まるで"手の届く範囲目一杯に"と云うふうに感覚的に配置され、そして周縁部では何やら物語めいた配置も為されている。一見して意味不明。戯けた振動、ダンス——この、半ばゆるっと弛緩した身体性にリアリティを感じた。例えとしては余りに仰々しいが、ラスコー洞窟壁画のように。

 それから路地をうろうろとして抜け、多田玲子『ABCDの素晴らしき世界 〜アイスクリームの百物語〜』展を観に、にじ画廊へと行く。1階のショップ・スペースを尻目に2階へ。「Kiiiiiii」のアートワーク等で見慣れた絵。物語文の刷られた紙と絵画作品とが交互にピンで壁に留められている。イラストレーション的ではあるが、絵画でもある。筆に興の乗ったような箇所も有り、単なる落書きであるとも言えない。ここで暫し、私の芸術観からは離れて首を傾げる。趣味として言えば決して嫌いな作品では無い。が、この「作品」と云う呼称に就いては取り敢えず保留しておく。
 尚、彼女は近々 Art Center Ongoing でも個展を行う。(『仮面ブドーのレース』展)

 今後、美術作品が増々「デザイン」へと接近していく事は避けられないだろう。それは絵画のイラストレーション化、デザイン的な要素の混入を例に挙げるまでも無い。美術はデザインと渾然一体になり、新たな社会性を獲得する。近年の美術作品は殆ど"表象の過剰"により成り立っている。この「デザイン」と云う言葉には、作品の表象に於ける時代性としての「デザイン的な処理」に留まらず、その作品がどのようにして社会に提示されるかと云う「見せ方」までもが含意されている。この為、「作品」と云う言葉が指示する対象の孕む圏域は、広く生活の中にまで染み入ってくる。とすれば作品の鑑賞経験に於ける「客観性」と云うものは、一体如何程に保証され得るだろうか?

March 12, 2008

untitled

 Kant, I.『判断力批判』を読み直して——カント氏の言う事は、その部分々々に於いては非常に簡潔で、初見に於いても理解に難しく無い。が、彼の著作を読む上で肝要な事はそれらの一つ一つを総合し巨大な概念体系として理解する事であり、その為には他の著作——即ち、『純粋理性批判』と『実勢理性批判』——を含めた「三批判」の全てを網羅する必要がある為に多少の訓練を必要とする点が、その読解に後世の多くの人々が惹き付けられ又その理解に悩んだ挙げ句に挫折する原因ともなっている。だがその余りの甚大さ故に、読み直す度、新たな発見に巡り会う事が出来ると云うのが「三批判」に於ける魅力である。そして読みこなす迄に屢々その解釈や理解の為に翻弄されるのも確かではある。だから読み手に対して先ずは忍耐が、次に時間が必須とされる。けれども若者には忍耐が欠けている、老人には時間が欠けている。それ故に読み手に対しては(結局は何についても同じであるが)彼の著作に取り組む為のちょっとした才能も要求される、或いは中年の時分この著作に出会う為の機会に恵まれる必要があるかもしれない。
 又、デリダ氏も言うように、『判断力批判』は「三批判」を総合する要の著作である(Derrida, J.『パレルゴン』)。残りの二批判についてはDeleuze, G.『カントの批判哲学』と Kant, I.『プロレゴメナ』とを併読する事で足りるとしても、やはり『判断力批判』についてはそれ自体に当たらなければならない。カント晩年の余りに美しい著作である。

March 11, 2008

08.03.11_09:44

Tama-shi, Tokyo

anchorpoint

 ほとほと疲れて寝床に臥せ、眼を蓋ぎ、暗闇の中を暫しのあいだ浮遊していると、瞼の裏側に既視感を伴った光景がはっきりと浮かび上がってくることが有る。それは幼い頃に見た風景であったり、つい先程まで思い返していた由無し事についてであったり、或いはまだ見ぬ出来事の幻視であったりと実に様々ではあるが、これらの光景に於いて共通するのは、常にその場には居ながらも私は既に傍観を決め込んでいて、眼前に展開されていく出来事に対しては全く参加していないと云う事である。時たまに登場人物から話し掛けられる事も有るが、私はただ黙って頷くのみなのだ。全ての事柄は明らかであり、何一つ目新しいものを見出だすことは出来ない。そのような既知の出来事が、まるで"繰り返される"ようにして現れては消える。
 私は相変わらず疲れていた。殆ど気疲れと云うものによりすっかり脆弱になっていた。このとき瞼の裏に現れたのは生家で両親と夕食を共にする風景であり、私はまだ高校生くらいであるような感じがした。両親の他には誰か人の居るような気配がなかった。食卓の上にどのような料理が並んでいるのかは分からないが、両親を向かいにして3人で何かを食べながら、あれこれについてを歓談しているような感じがした。すると私が今臥せっている寝床の布擦る音と共に、耳元には幾つかそれらしい声が聞こえてくる。が、それらの声は両親のものともまた私のものとも似通っていない、或る普遍的な匂いのする声であった。段々に蓋がれた瞼の向こうが騒がしくなり、人々の居る気配が流れ込んでくる。皆行儀よく玄関から次々に部屋へと入ってくる。私は一人で部屋に臥せり、雑踏に囲まれて、両親との食事を楽しんでいる。然しながらふと「私の身体がここに在る」と云う考えが到来するや否や、それらの人々は記憶の中へと退隠し、瞬く間に私は再び一人になった。そして眼を開き、それまで在った生々しい感触を追憶しては何やら無性に寂しい気分になり、そして悲しくなった。

untitled

米空軍が F117 Nighthawkの退役を発表。

March 9, 2008

08.03.09_16:33

Akihabara, Tokyo

March 8, 2008

untitled

 ほとほと疲れて寝床に臥せ、眼を蓋ぎ、暗闇の中を暫しのあいだ浮遊していると、瞼の裏側に既視感を伴った光景がはっきりと浮かび上がってくることが有る。それは幼い頃に見た風景であったり、つい先程まで思い返していた由無し事についてであったり、或いはまだ見ぬ出来事の幻視であったりと実に様々ではあるが、これらの光景に於いて共通するのは、常にその場には居ながらも私は既に傍観を決め込んでいて、眼前に展開されていく出来事に対しては全く参加していないと云う事である。時たまに登場人物から話し掛けられる事も有るが、私はただ黙って頷くのみなのだ。全ての事柄は明らかであり、何一つ目新しいものを見出だすことは出来ない。そのような既知の出来事が、まるで"繰り返される"ようにして現れては消える。
 私は相変わらず疲れていた。殆ど気疲れと云うものによりすっかり脆弱になっていた。このとき瞼の裏に現れたのは生家で両親と夕食を共にする風景であり、私はまだ高校生くらいであるような感じがした。両親の他には誰か人の居るような気配がなかった。食卓の上にどのような料理が並んでいるのかは分からないが、両親を向かいにして3人で何かを食べながら、あれこれについてを歓談しているような感じがした。すると私が今臥せっている寝床の布擦る音と共に、耳元には幾つかそれらしい声が聞こえてくる。が、それらの声は両親のものともまた私のものとも似通っていない、或る普遍的な匂いのする声であった。段々に蓋がれた瞼の向こうが騒がしくなり、人々の居る気配が流れ込んでくる。皆行儀よく玄関から次々に部屋へと入ってくる。私は一人で部屋に臥せり、雑踏に囲まれて、両親との食事を楽しんでいる。然しながらふと「私の身体がここに在る」と云う考えが到来するや否や、それらの人々は記憶の中へと退隠し、瞬く間に私は再び一人になった。そして眼を開き、それまで在った生々しい感触を追憶しては何やら無性に寂しい気分になり、そして悲しくなった。

March 6, 2008

untitled

Rozhdestvensky, G. 指揮の Tchaikovsky "Symphony No. 4-6"、
Stravinsky "Pétrouchka" を買う。

March 5, 2008

08.03.05_00:39

@BIGI

March 4, 2008

untitled

group_inou の1stアルバム『FAN』の発売が "MyX" にてアナウンスされた。
思えば近頃は、それがやってくるまでを指折り数えて楽しみにして待ち望むような事は案外少ない。
こうやって世の中に対して興味を持ち続けるきっかけがぽつぽつと有るうちは、まだ幾らか救われているのだと思う。
そうで無ければ——私の好奇心が、全き「今(now)」と云うものからは離れてただ古典にのみ向かうのだとすれば——そして無論、その事すら充分に幸せな事だとも思えるのだが、然しながら私がこの "now" からはすっかり立ち去ってしまう事で、同時に "here" も欠如したまるで「幽霊」にも似た存在としてこの世を彷徨するのかと思うと、やはりそれは少し恐ろしい事のように感じられる。
だから、これら一つ一つの要因が束を成して私をこの世に繋ぎ留め続ける因果を夢想し、その偶然が織り成す和声に「福音」の陰を直観する事が、一先ず私がこの世に生き続ける為の理由の多くを担っている。

March 1, 2008

『いい地図』展

 近藤恵介『いい地図』展を観に Gallery Countach(新宿)へ行く。
 彼の絵柄は以前から知っていたのだけれど、実際に作品を観るのはこれが初めてである。それは印刷を経た image よりもずっと清々しく、何の先入見も用意しなかったが故に、却って作品に没入する事が出来たのかもしれない。率直に善い作品だと思うし、所有欲をも掻き立てられる。
 空白を広めに取った画面構成には随所に三角構図がみられる。彼によれば、最初に全体の構図を定めて描くのでは無く、先ず部分から描き始めて、描き進めていく過程で序々に最終的な構図を決定するとのこと。非常に緻密な筆致が重ねられている。近頃では、やもすれば手抜きとも思えるような勢い張った筆致の作品ばかりが目立つが、その中に在って、彼の丁寧な仕事には率直に安心感を覚える。
 初見に於いて、或る程度完結性を持った(キャラクター化された)モチーフ群がモジュール状に配置されているようにも思えた。そこから私は一連の失語症絵画との類似を認めて、端的にその徴候を読み取ろうと試みたが、作品に於ける個々のモジュール(部分)は決して交換可能なものとしては描かれていない、それらの絶対的な配置による構築性の有る事に気付き、寧ろその構成に於いて「曼荼羅」にも似た統制的な構造を見出だせるのではないか、と考えるに至った。画面全体を部分の積層により埋め尽くす事無く、適切な余白を維持し得たのはその為だろう。とすれば彼の作品に於いては、構図よりも構成と云う事に多くの力点が注がれているのかもしれない。部分から描き始められるにも拘らず、結果的には全体的な合致(停止性)を獲得していると云う点は非常に興味深い——余り優れていない描き手の場合、この「停止性」は画面の全てを埋め尽くす事に依って獲得される。

 私とは年の離れた、年下の友人Ykt君とギャラリーで待ち合わせ、彼の次の公演企画の話を聞く。

 それから私は銀座へと赴き、Gallery Art Point で催されたM先生によるレクチャー『"神秘"の俗解』に参加する。これは『DE MYSTICA —召命—』展との並行企画。M先生にお会いするのは久々であるけれども、「情調(Stimmung)」に関する考察にそれ程の進展がみられなかった事には少しがっかりとした。先生は今、何を考えていらっしゃるのだろうか?
 レクチャーの後に先生と少しだけ話をした。私の好物である白松がモナカの胡麻餡のものを一箱頂いた。先生は終始にこにことしている。
 先生が構想する「情調論」はまだ断片的であり、確かに巨大な問題系を孕んでいる。が、先生がやらないのであれば私が先にやろうとさえ思った。先生を奮起させるだけの理論をまだ私が持たない事に腹が立ったし、それが悲しくもあった。私が大学在籍時、先生が落ち着き無く宙に視線を漂わせながら話す日常の事柄からは離れてふっと紡ぎ出したその断片に、その声に! 私は確かにその場に居合わせて、そして"確かに"霊感を受け取ったのだ。私は今でも、緩やかながらも着実に、この霊感を絶えず吟味し考察を積み重ねている。だから仮にも私が先に「情調論」を完成するのであれば、先生にはそれを心から喜んで欲しいと思っている。