December 30, 2012

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帰郷の途に就く。

December 28, 2012

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仕事納めの後、職場の親しい人らとの忘年会に参加する。

December 26, 2012

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蒲田に在る書店にて、
水嶋一憲監訳『コモンウェルス 〈帝国〉を超える革命論』(上下、NHK出版、2012年)[=Hardt, M./Negri, A. "Commonwealth" 2009.]、
を購入し、それから悪魔のしるし忘年会に参加した。

December 25, 2012

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日吉駅に在る書店にて、
押切蓮介『ハイスコアガール』(Bd.3)、
を購入した。

December 24, 2012

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元住吉に在る書店にて、
木尾士目『げんしけん 二代目の四』(Bd.13)、
を購入した。
Aと中目黒で待ち合わせ、近くの古書店へ行き、
式場隆三郎『二笑亭綺譚』(昭森社、1939年)、
を購入した。
それから都立大へ、市街地を散策し、すずめのお宿(移築古民家)を観た。

December 18, 2012

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日吉駅に在る書店にて、
細野不二彦『ヤミの乱波』(Bd.1, 2)、
久住昌之・谷口ジロー『孤独のグルメ【新装版】』、
を購入した。

December 14, 2012

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日吉駅に在る書店にて、
『軍事研究』(No.550, Jan., 2012.)、
を購入した。

December 9, 2012

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Aと六本木ヒルズ・森美術館へ行き、『会田誠——天才でごめんなさい』展を観た。
相変わらずの悪趣味振りに中々楽しめた。
私はそれらの展示物の殆どを作品としては評価しない為に、却って展示企画としては評価出来ると考えた。
凡そ展示物は冗談である、つまり美術館に居て作品を観ると云う際の通俗的な気分は粗方覆される。
冗談を笑うときには自らの気分が対象化されている。
美術館に居て、然し通俗的な作品鑑賞の、眉根を顰めて作品と向かい合うこと無しに、只単に笑って楽しめるのだから展示企画としてはそれで良いのだ、と云う内容。
但し、興味の惹かれた作品も在った。
いかにも手製の額縁に唐草紋様の描かれた画面が収められたもの、『紐育空爆之図(戦争画RETURNS)』、『スペース・ウンコ』、『スペース・ナイフ』、巨大な横長の画面にあざやかな色彩で美少女たちが描かれた新作、『巨大フジ隊員vsキングギドラ』、『犬』シリーズ、『美味ちゃん』シリーズ、これらは個人的な好みも含めて作品として楽しんだ。
加えて"MONUMENT FOR NOTHING II"の段ボール彫刻群も面白かった。
ふと、会田誠の描く美少女たちは、今となってはもう余り見掛けないようなタイプの風貌だと気付く。殊更にノスタルジックな印象を抱くことになった。ではもし、彼女らが今風の美少女へと描き変えられたならどうであるか、と考えた。美少女像が特定の時代性に結び付いているように感じる、このタガを外すことは何か作風の毀損へと繋がるだろうか?

展示を観終わってから展望台へ出たら、晴れの日差しが思いのほか目の奥に刺さった。
あたかも六本木ヒルズを中心として広がる東京のビル群、その向こうには徐々になだらかに低くなり続く神奈川・埼玉・千葉方面の密集した市街と、時折ぽつぽつと小規模な突出をみせるビル群のようすが、それぞれに強く光を反射している。冬の澄んだ空気で、随分と遠くまで見通せる。そして、遥か遠方で次第に薄く霞んでいく。
何か無性に東京タワーのオレンジを間近に見上げてみたいと思うのはこう云う日だろうか?
六本木から三田までを、気の趣くまま二人で散歩した。

帰りの電車で、疲れで眠り込んでしまったら、気付けば日吉まで来ていた。
日吉駅の書店にて、
西山優里子『家電の女』(Bd.2)、
を購入した。

December 5, 2012

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日吉に在る中古本屋にて、
大和田秀樹『ムダヅモ無き改革』(Bd.1-3, 5, 6)、
を購入した。

December 4, 2012

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日吉に在る書店にて、
細野不二彦『ヤミの乱波』(Bd.3)、
小路啓之『ごっこ』(Bd.3)、
を購入した。

December 2, 2012

快快『Y時のはなし』×アーティスト・イン・児童館(@光が丘区民センター)について

光が丘区民センターにて、快快『Y時のはなし』×アーティスト・イン・児童館を観た。
以下、雑感を記載。後にまとめる予定。

『Y時のはなし』については、小指値時代の『R時のはなし』(@STスポット、2007年)をDVDで、2010年のVACANT公演、と2度見ている。
今回の公演は、これまでの『Y時』にワークショップ(以下、"WS")参加者のパートが付け加わったものとなっている。

一般的な観劇環境を観客と舞台とが切り離されたものとするなら、今回は演者も観者として客席に、ときには舞台上にと居場所が入れ替わるので、当然"通常"の環境とは異なる騒々しさ雑多さの中で多くの観者は鑑賞する事になる。
ここには演者とその身内と云うような「関係者」と、それ以外の言わば「"通常"の観者」とで鑑賞の質が異なる、と云う簡易な弁別が、今回の場合に於いては果たして有効に駆動するだろうか? と云う疑問は生じる。この弁別は弱いのではないか?
「子ども」と云う不確定要素、『SHIBAHAMA』で観客を舞台上へ上げるよりも更に生じるであろう不確定要素は、予想したよりも抑えられていたように感じた。プログラムとしてはWSの成果発表と云う、それこそ身内的な達成点が予感されながら、然し今回は十分に作品としての質が備わっていた。
そこで改めて、先に挙げた「通常の鑑賞環境」や「通常の観者」と云うような、演劇の状況として想定されがちな理想的なものの価値は、作品の質に対して何であるか疑問が湧いた。それらは当然の価値を持っているようでいて尚々切り崩しの対象として有効だと云う予感がした。

December 1, 2012

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新宿へ行き、読書会に参加した。

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 http://togetter.com/li/417079