December 27, 2006

雷鳴のあとに

Mozart の悪魔は、彼の音楽が
まるで演奏者のどのような解釈をも受け入れている「かのように」みえて、
そう思うや忽ち世界は Mozart の音楽が
充溢していると感じられることに在る。

擦り切れても、もの言わぬ Mozart は常に Mozart である。
つまり全き Mozart は神からすらも離れて Mozart である。

世界には唯一人彼だけが在るが、又、
私はそのような世界にも住まうのだ。


December 19, 2006

December 11, 2006

image stalker

あなたは逃げるのがとても上手いから、
きっと私があなたを追いかけても
あなたは器用に私から逃げてみせるのだと思う。

そんなにもあなたが私から逃げることに夢中になるのだと思うと、
何だか私にはそれがとても可笑しくて
あなたのことがますます愛おしく思えてくるのだから。

もし私がここで少し息切れして立ち止まってしまうのだとすれば、
私はきっと、それがこの楽しみを欠くことなのだと感じるだろう。


November 22, 2006

Eureka!("Love Letter")

私は彼女(便宜上、そう呼んでおく)の前を行ったり来たりしていたから、私には彼女の確かに在る事がもうすっかり分かっていたのだけれど、いつも寸でのところで彼女の腕を掴み損ねていた。が、私はとうとう彼女を抱きしめて彼女との熱い抱擁を交わす事が出来た。この充実感!

文章を書くにあたって、そのものごとを当たり前の事として、落ち着いて書き得ると云うのは案外骨の折れるものである。と云うのも、そこには確かに今しがた書き終えたばかりの私の文章の宛先としての読者が確固タルものであるような明晰さを伴って在る、と云う必要があるからだ。(そして勿論、その読者は確かに在れば善いのであって、彼或いは彼女の目鼻顔立ちが明確である、と云うような必要は特に無い。)

ところで、私がそのような「概念的人物」としての彼女との抱擁を交わす事が出来たのは、私の思索に於いて生じた概念に対する或る程度納得のいくようなデッサンが出来上がり、つまりその概念(モチーフ)についての見通しが明らかに開けた為であるが、そしてここにも付け加えておかねばならないのは、彼女との抱擁に際して、さらに私の彼女に接吻をする必要は全く無いのだ、と云うことである。何故なら彼女は確かに在るけれども、然しながら彼女は人格を伴うような顔立ちを持たないからだ。

言うなれば文章とは、彼か彼女か分からぬが兎角人に向かって書けば善い、と云う事になる。そして彼或いは彼女が私の文章の読者である為には今まさしく世界に生きている彼或いは彼女ではなくとも、今後生まれ得るが為に確かに在ると云うような彼或いは彼女に向けて私は書くのだ、とも言えなくは無いように思われるのだ。

そして私は今しがた、私の書き得る文章がそのような読者に向かって書き得ると云うような確信に合致した事が確かに分かったのだ。私が腕を掴まえて抱擁した概念がまさに「彼女」であった、と云うような性格付けによって私がその概念に対する幾らかの親近感を覚えたと云う事は、私がその概念に関して私は確かにそれを文章に於いて書き得ると実感するに至る為には少なからず必要だった、と、なるほどそのように言う事は出来そうである。


November 15, 2006

下手な考え

日に5冊も本を読むと——それは新たに読み始めた本では無くて、専ら"読み直し"である為だ——、如何せん頭も朦朧としてくるし、口も余り饒舌には機能し無くなる。そしてこのような入力過多の、呆とした、頭痛の——或いは、「頭でっかち」の——殆ど"ものを考える"には大凡適切では無い程に茫漠とした状態こそが、思索をするのにとても善い状態だと言える。例えば「休息」を必要としているような、もう何も考えたくは無い穏やかで"空っぽ"の時間には——換言すれば、ぷつぷつと脳細胞が音を立てながら徐々に思索の見通しが鮮やかに切り通されて開けていく時間に在っては——、詰まるところ常にこのような感じを持つだろう。そしてこれは、紛れも無い「読み直し」の効果に他ならない。

この「読み直し」の読書は、セーターの毛糸をほどく作業に似ている。ここでの私たちの目的とは、この目の前に在るセーターを一本の毛糸へと還元する事に在る。さて、どうしようか?と、取り敢えず当てずっぽうにでも然し一つの直観には頼りながら、「えいや!」と毛糸をほどいてみる。ところが最初から上手くはいかない。すると今度は別の箇所から、また再び毛糸をほどきに掛かる。次々に。そのようにしてセーターは、いつの間にやらもこもことした毛糸の塊の結び目のような、曖昧なかたちを持つようになる——言うなれば、概念が度重なる咀嚼の為に滲み出す唾液によって、「ふやけた」状態。と、このような状態にまで至るなら、もうどこを引っ張ろうとも、あちこちで結び目が新たに生まれるだけで、やはり一向に事態は進展の兆しを見せないだろう。

これでは全き「ゴルディアスの結び目」である。が、ここではアレクサンダーの勇敢な身振りも余り要求されはしない。と云うのも、思索に在っては、常に丁寧で慎重な態度が要求されるからだ。そして、私たちの兼ねてからの目的とは、依然として「目の前に在るセーターを一本の毛糸へと還元する事」に在る。

このような場合に在っては、少しだけ落ち着いて、先ずはその両端から取り掛かってみると——それは緩慢で悠長な仕方では在るけれども——やはり少しずつその結び目がほつれていく、それが一つの堅実な仕方であるようには思える。そうやって其処此処の結び目を徐々に緩めながらも、少しずつでは在るが真っ直ぐに延びる明晰な箇所が増えていく。最後まで頑に残り続ける結び目は、このようにして明晰な箇所が増えるにつれて、後は一つ一つ落ち着いて取り掛かれば善いと云うような具合になる。と、これは確かに確実では在るが、然しながら非常に時間の掛かる仕方でもある。故に私たちは、このような作業に取り掛かる前に、先ずはセーターの編み目を暫しの間ぢっくりと観察して、後に続く然るべき作業に対する充分な見通しを準備しておく必要が在る。(とは云えこの時点に於ける考え過ぎも、やはり一向に実践には結び付かない)

けだしそこにも直観は、運善くとも奇跡的ともまるで言い方に困るような感じで係っていて、セーターの端を持ち上げたら忽ちに一本の毛糸になってしまうような、そう云う呆気の無い類いの明敏さを確かに備えている。


October 28, 2006

バタイユの5章構成に於ける心理的変化の印象。

1) 「今から私の述べる事柄は、画期的だ。それは人類が今迄に、誰一人として述べてはこなかったものだ。では何故、今迄述べられはしなかったのか? することが出来なかったからだ。然しながら私には今、それが出来る! ところで付け加えておこう。これから私の述べる内容は、その一切が哲学的では無い。けれども見てい給え! きっと吠え面をかかせてやる。」

2) 「どうだい。分かったかな? これこれの事柄が。ちっとも分からないって?(首を傾げて)ではもう一度言おうか、つまり私は、…。〔省略〕何か雲行きが怪しくなってきている。が、私は勇気を振り絞り、"それら"に構わずに突き進む。ようく見てい給え。この問題は次の章に於いて綿密に取り扱われ、検証されるのだから。」

3) 「私は失敗した。何故だ?(目に涙を浮かべながら)けれども私には、その理由が今やはっきりと分かっているのだ! 見てい給え、次こそは!」

4) 「ごめんなさい。先ず、初めに謝っておく。けれども私にはその理由が、今やありありと見えている。私は何も悪くは無い!(泣き叫びながら)然しながら人間が、これこれの問題を扱う為には些か不器用過ぎるのであるから! 神が! 神が私を失敗させたのだ! けれども私にはこれで、神が私に対して言わんとしているこれこれの事柄についてがようく分かったのだから。 次は、最早 為損じることは決して無い。これだ! そして、"これこそが!"」

5) 「思い返せば私はまだ若く、そしてこれこれの問題を扱う為には、まだ充分に成熟に至ってはいなかったのだから。私は述べ過ぎた。私にとっては、まだ時期尚早であった。私にとって一つ分かったことが在るが、それはこれこれの問題が未だかつて解き得ぬものであるし、また、それ以後も、これこれの問題系が人類に於いて解き明かされることは、やはり決して無い。それが分かった。私にはようく分かった。だから神よ! 私を嘲り笑う神よ!」

October 23, 2006

October 22, 2006

October 12, 2006

がっかり

カッフェの窓越しに通りを歩く女の子の放つ"善い匂い"に惹かれて、
私は暫くその彼女を眺めていた。
それは私がよく「淡い恋心」と言って他人に冗談めいて仄めかす
興味本位の姿をした一つの理由だった。
私はいつも通り、幾分身勝手に彼女の仕草を観察し続けた。
彼女と私との間には何の関係も無かったのだから、
彼女は私の眼差しすらまるで気にする事無く明け透けに笑ったが、
その軽薄な他人の顔に私は随分と気分を害した。
すると私は彼女を軽蔑し、既に彼女に対する興味すらも失っていた。
少し「がっかり」した。
そして、こんなふうに私も他人から「がっかり」されているのかと思うと、幾らか気分も虚しくなった。

だが、世界に私の在る事を少しでも気に留める人間など、
一体どれ程に在るのだろうか?


September 18, 2006

September 1, 2006

世界のこと

昼過ぎには降っていた雨も、やがて止み、
薄明かりが差していた。

私は煙草を買いに出掛けた。

道沿いには電柱が行儀善く立ち並んでいたが、
巧妙な光の加減に因って、
電線の傍に従うアスファルトのうっすらとした窪みに気が付いた。

「これは雨垂れの痕かしら?」

重力がまるで為損じる事が無いのと同様に、
私は自然の持つこのような力を確かに信じていた。


August 28, 2006

August 27, 2006

"Minimalist Program"

概念とは、まるで足の速い兎のようなもので、
それを掴み取ったかと思うや否や、その概念は
握った両手からするりと抜け出ている。
それ故に思索の歩みとは、先ずその逃げ易い兎を囲い込む為の"檻"を見繕うことから始められる。

私は、夜の森の中を通り沿いに歩きながら、「彼れでも無い、此れでも無い」と考え倦ねていた。
ふと、夜の通りを一台の自動車が走り抜けていく事に気が付いた。
自動車のフロント・ガラスは、一定のリズムを刻んで橙色の街灯の光を照り返している。

"Good Tempo ..."

その瞬きの連続こそが速度なのだ。
然しそれは、そもそも街灯が等間隔に置かれていることを信用する証でもある。
私は、再び歩き始めた。

私は或る考えに取り憑かれていた。
私は自分の書いた文章に適切な注釈を付けぬことによって悪筆家と成ったが、
それは同じ轍を二度踏む事に等しい。
私は最早、考え得る事すら考えないようにしていた。
私の思いは、私が既に考えている事と全き同義になって了っている。

「私の不幸を笑う者は無いか?」

闇の中から誰か現れでもしようものなら、
その口元すら嫌悪しようと考えていた。
とうとう誰一人として私に出会う者は無かったが、
私は子猫だけを見続けていた。
仄暗に浮かぶ橙色の眼をした子猫を、である。

その瞳を覗き込むと、私は酷い顔をしていた。

August 15, 2006

untitled

「私は、分水嶺に、ひとつの感じがあるように思う。(…)地の果てというと、この大地の上のひとつの物尺をあてて、そのまま真直ぐ気の向いた方へ無限に延長した何処かの果て、荒涼たる氷海に閉ざされた暗澹たる土地を想像しがちであるが、もしこの大地にそって幾日か進めば、すでに私達はその地の果てに達しているのである。そこへ達すると、私達の地を這う習性が試されるように思われる。小さく光った湖や光を吸いこんだ黒い森や白い蒸気がたちのぼっている裸かの大地などが、そこから神々の庭のように眺めおろされるが、と同時に、虚空に接している屋根から真上の蒼穹を眺めあげると、不意に一歩踏みのぼりたくなるのである。(…)——そんな何処かへ架かろうとして極まっているひとつの地の果ての感じは、虚空へのびあがった分水嶺に、たしかにあるように私は思う。」

[埴谷雄高『虚空』1950年]

July 23, 2006

July 12, 2006

紳士淑女諸君!

——さあ、議論を始めよう!

さて、これから議論を始める為には、
お互いに論理的でなければならないな。
その上でなら議論のテーブルに就いた者 同士
互いの「合意」は暗黙の裡に、
既に含み込まれている筈だ。
ふむ。それ故 議論は最低でも平行線か交差であり、
それに全く関与しない、と云うことは
よもや想像されないだろうな。
そこには「誤解」の自由だって、無論、在り得るのだから。

——素晴らしい!(拍手)

だから議論に於いて感情的になることは、
我々に共有された「ルール」に反する。
感情の持つ不可解さは、合理性を持たないから。
例え、机を怒り任せに殴りつけたとして、
我々は間違ってもテーブルから離れることを許されない。
そうだ。そのような行為は礼儀に背くのだ。
議論そのものを放棄すると云うのだから、
そのような不躾は、素直に負けを認めるということだから。
蓋し、これでは無神経で、極端に気の長い人間が
最終的に勝ち得て了うことも否めないな。

——馬鹿な!(一部、騒然トスル)

ここで、もう一度「議論の条件」とやらを鑑みれば、
互いに働く暗黙の裡の合意(「議論を続けよう」或いは
「それは確かにそうだ、然し、今度こそ私が」)
も有るが、
それと同時に、そもそも互いに異なる立場を持つと云う保証
(「それは飽く迄 君自身の意見だ」)を与える弁証法が機能している。
ふむ。それは暗黙の裡に互いに結ばれた合意を、
議論の上で目に見えるかたちに結実させようとする
(それは、納得のいくかたちであれ、物別れであれ、何らかの結果として)
議論の「機能」そのものであるが、
そのような短絡こそ、議論にそもそも含み込まれている欺瞞である!

——(一部カラ熱烈ナル拍手。ソレモ直グニ止ム)

つまり、議論をするからには必ず何らかの結論に辿り着くが
(「議論が成立しない」と云うのも結論だ)、
我々はそれを期待してはいけない筈だ。
議論に参加している主体は、それぞれに多面的であるが、
その多面性がそれぞれに個別で、数え上げ出来るもの
(「君のそのような"意見"は、"私の立場"とは異なる」)
だと考えてはいけない。
その多面性は、議論の未だ終わらぬ裡にはまだ保留されているので、
我々がそれぞれの立場について述べられるのは、
その議論が決着したあとであるだろうから。

——(観客ハ、オ互イノ顔色バカリ伺ッテイル)

だからと云って、それぞれの立場を初めから留保して議論を続けてもならない。
それでは、互いの立場を確認した上で、
敢えて言わないでいるのと変わらないのではないか?
それでは結局、それぞれの立場を確定し、
それらを先延ばしに保留する態度をとっているに過ぎないだろう。
つまり、議論に於けるそれぞれの立場 云々を初めから考えてはいけない筈だ。
だから諸君、ようく聞き給え。
何なれば、議論を始めるにあたって、それぞれが互いに顔を突き合わせている
その状況こそを議論の条件と考えよ!

——もう沢山だ! もう沢山だ!(拍手)


July 10, 2006

June 18, 2006

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"Vanishing Point" (1971)

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"Vanishing Point" (1971)

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"Vanishing Point" (1971)

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"Vanishing Point" (1971)

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"Vanishing Point" (1971)

June 4, 2006

June 1, 2006

April 24, 2006

April 23, 2006

January 30, 2006

January 22, 2006

06.01.22_00:40


06.01.22_00:22


Wenders, W. "Im Lauf der Zeit" (1976)

06.01.22_00:21


Wenders, W. "Im Lauf der Zeit" (1976)