March 31, 2014

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Amazonにて注文していた、
『杉井幸一 サロン・ミュージック集』(キングレコード、2009年)[CD]、
鈴木生郎ほか著『現代形而上学 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎』(新曜社、2014年)、
塚原史訳『透きとおった悪』(紀伊国屋書店、1991年)[=Baudrillard, J. "La Transparence du Mal" 1990.]、
長澤信壽訳『クール・デウス・ホモ(神は何故に人間となりたまひしか)』(岩波書店、1948年)[=Anselmus "Cur Deus Homo"]、
及川馥・米山親能訳『パラジット——寄食者の論理』(法政大学出版局、1987年)[=Serres, M. "Le Parasite" 1980.]、
Christophe Degueurce "Fragonard Museum: The Ecorches" Blast Books, 2011.[オノレ・フラゴナール解剖標本写真集]、
を受取った。

March 30, 2014

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昼前に浦賀に向かい、Fjtさん主催のイベント『東叶神社で春のおまつり』を観る。
この日は生憎の雨と強風により屋内での開催となったが、神社の方が素晴らしいロケーションであるだけに惜しい。
会場でMmtさんKbyさんと合流する。出演者はNhrさんOnoさんといういつもの組み合わせ。
演奏は、いかにも土地の祭かのような厳かさのディティールが取り合わせられているが、それらは案外出鱈目で、とは云えちゃんと祝祭感があったのはよかった。

浦賀から荒川へMmtさんらと移動する。
サンパール荒川大ホールにて、あらかわ舞台芸術創造プロジェクト『能とオペラ』公演を観た。

 >>> あらかわ舞台芸術創造プロジェクト『能とオペラ』

能とオペラの掛け合わせというのは、やはり想像したなりの無理はあったのだけれど、見たい景色ではあったから楽しむことができたし色々と見えたものがあったことは収穫だった。
演目の第三部、シューベルト『美しき水車小屋の娘』からの作品は、よく作られていて構成上の問題点が分かり易かった。
能とオペラの音楽的なリズムの異なりという点は最も見え易くて、どうもここが馴染み合わない点であるように思えた。
出演は、ピアノの演奏にオペラ歌手(四声)の謡手、能楽師の演じ手。
演じ手の動きはどうしても西洋音楽のリズムに引き摺られがちに見えてしまうのは、音楽の質のせいだと思われる。
これにより、能に独特のスローな動きに西洋音楽の華やかな盛り上がり様が被さると、どうにもハリウッド映画のラストシーンのような感動的なニュアンスを引き出してしまい、それが滑稽と結び付いてしまうようだ。
とても面白い景色で、見応えがあった。
照明効果の調子が、演奏会ふうのフラットなものだったり演劇的な陰影だったりに揺れて一貫せず、総合的な効果としては失敗と見えてしまう印象があった。もっと作り込む余地はある。

それから日暮里の中華料理屋へ移動してみんなで夕食を食べた。

March 29, 2014

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Amazonにて注文していた、
長澤信壽訳『モノロギオン』(岩波書店、1946年)[=Anselmus "Monologion" 1098.]、
を受取った。

代々木公園にて、アマラブの花見があったので、それに合流した。
それから、宇田川町の居酒屋で後輩のTtrくんSdくんと会った。

March 26, 2014

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日吉駅に在る書店にて、
沙村広明『幻想ギネコクラシー』(Bd.1)、
を購入した。

March 25, 2014

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元住吉に在る書店にて、
島本和彦『アオイホノオ』(Bd.9-11)、
を購入した。

March 23, 2014

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綱島に在る中古本量販店にて、
島本和彦『アオイホノオ』(Bd.4-8)、
を購入した。

March 22, 2014

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西日暮里にて、大木屋という店にてNkgさん主催のもんじゃ会へ。
初っ端から、この店名物のエアーズロックと称される肉のかたまりが登場し、ひどく興奮した。


店を出てから、流れで1時間ほどカラオケに興じた。

March 21, 2014

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αM(小伝馬町)にて八幡亜樹の個展『楽園創造(パラダイス)—芸術と日常の新地平—』展を観る。

映像作品は3点展示されている。
作品1"introduction"(3:53)、作品2"Pand ending"(13:49)、作品3"sidestory"(8:25)。
作品1は展示空間の奥の壁面に投影されている。作品2は、壁から柱へ渡し掛けた布に投影され、投影光が布を透かして作品1へ掛かるようになっている。作品3は入り口正面の壁に投影され、質的にも作品1・2からはやや独立した格好になっている。
作品1を観て、優しいグリッヂが特徴的な、美術の映像作品というよりは短編映画に分類されるような—つまり鑑賞経験に空間的拡張がない—作品だと思えた。作品2を観るまでは。実際のところ、作品1と作品2はセットでインスタレーションと言い得る(それゆえ、キャプションにあるような作品単体でインスタレーションとすることは難しい)。映像のテイストとしてはスナップショット・カットアップ、ミュージックビデオのようなテンポ感に似ているように感じる。ここに時折、優しいノイズ・エフェクトが掛かったカットが混じり合って、これが作品1と作品2をインスタレーション作品足らしめるべく両者を空間的に跨ぐシーケンスとなっている。

この作品には簡単なストーリーがある。カメラに残された映像記録が軸となって構成され、展開していく。
主人公はフィリピンの街中をビデオカメラを回しながら、モノローグを呟きながら歩き回る。映し出されるのはその手持ち撮影の映像だ。主人公は撮影の途中で事故に遭い、現場にカメラを置き去りにしたまま病院へ搬送される。事故の瞬間にカメラは地面に投げ出され、そして地面に倒れたまま動かない主人公を撮影し続ける。カメラはこの出来事を傍観する。この事故=出来事の衝撃はカメラに機械的な不具合をもたらし、映像にはノイズ(グリッヂ的な)が出来事の痕跡として残り続ける。
このカメラはフィリピン人の若者たちに拾われ、彼らの生活圏の細切れの記録の為に使われる。
やがて彼らの持つカメラは主人公の知人に発見され、主人公の元へと引き渡される。このときカメラにはフィリピンの若者たちが撮影した映像が残されている。
カメラは主人公の手から不意に放り投げられ、他者の記録と混じり合い、再び戻ってくる。作品はこれらの、自身と他者の記録の混在により構成されている。

そして、映像に掛かるノイズ・エフェクトの有無は、事故の瞬間を起点にその前後の区別を示唆している。また、このような分水嶺はそれ以外の様々なモチーフの対立にも延長されている。例えば、銃殺されたホセ・リザールと事故に遭っても死ななかった主人公、焼かれて死ぬ蛾と死なない蛾、フィリピンで死んだ日本兵と事故で死ななかった作家、など。あるいは、パンデサル(フィリピンで常食されるパン)のモチーフ性について、パンデサルがスペインから伝来したことや、パンが経済の中で交通すること、つまり売買されること、地域に特有の食品であること、狭い範囲での消費によりヴァナキュラーであること。これとビデオカメラの受け渡しや事故、つまり出来事の時間的・空間的な系列との対応が引き出せる。
重要なこととして、これらの系列の連関は、作品1と作品2の両方を観ることで初めてもたらされる、つまり作品1と作品2は空間的に異なる配置であるが、これらが一つのパースペクティブ上に結び付くことでインスタレーション作品として空間的な立ち上がりを獲得することができる、という点だ。それゆえ、作品2の投影光が作品1へと掛かるような空間的配置は、インスタレーションとしての作品の質を呼び起こす導きの糸である。

作品について悪くないけど、という感じで感銘は受けなかった。むしろ「映画と美術としての映像作品との違いは何か?」ということばかり考えていた。それゆえ、スクリーンのシワや、投影がライトレールに掛かって画面左上が欠けていたことは気になった。
経験的には、美術としての映像作品の定義は、”鑑賞経験における空間的拡張が有ること”これであるが、このため複数の映像作品の音声が互いに浸潤し合うことへの寛容が生じているのではないか、という考えに至った。

秋葉原へ移動し、アニメイトにて、
『アニメグラフ』(No.3)、
を購入した。

そこから少し歩いて、JIKKA 実家へ、荒木くんの個展『MOTHERLANDS』のオープニングに顔を出す。
展示されていたのは、滞在したアイスランドの村(人口500人くらい)にあるレストラン、アメリカ・ルート66沿いの地名に因んだメニューを4人で次々制覇してハリウッドを目指すロード・ムービーとか、その村の老人に見よう見まねでオスカー像の木彫像を彫ってもらったその記録とか、アホなネタだなと思いつつも、スパイであるところの荒木くんらしい作品だった。
二次会はすぐ近くに在る米線にて。

March 20, 2014

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元住吉に在る書店にて、
石川雅之『もやしもん』(Bd.13)、
細野不二彦『ヤミの乱波』(Bd.4)、
を購入した。

March 19, 2014

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昼頃に、台湾で中台協定の批准に反対する学生たちが立法院議場を占拠したという情報が伝わってきた。
事態の経過を注視したいと思う。

Ust: 台灣-[退回服貿*捍衛民主]佔領立法院實況
ニコ生:台湾立法院(国会)を学生らが占拠 生中継

March 17, 2014

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朝、通勤路に在るコンビニにて、
ハロルド作石『RiN』(Bd.5)、
を購入した。

恵比寿へ行き、GFA。
Hsgwくんより、
『北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI —交錯する現在—』(2014年)[企画展図録]、
を手売りしてもらう。

私はこの企画展の、大阪展も東京巡回展も観に行ってはいないのだけれど、気に掛かっていたので、早速入手できてよかった。
実際に手に取ってみると、先ずは図録としてのクオリティの高さに驚かされる。デザインの体裁だけに留まらず資料体としての充実が図られていて、明らかにこの図録が企画展の余剰や冗長として制作されたものではないことを、企画展の構成として端から組み入れられていたものだということがよく分かる。これは美術館の企画展図録が、やもすれば展示の思い出を楽しむものとしてスクラップブックのような羅列性に堕落しがちなこととは一線を画していて、アーカイヴとしての発展性が含み込まれている。
インディペンデントの企画展図録とはいいながらも優れて資料性が高い、今後のインディペンデントな企画展に対して一つの新しい基準を作ってしまったような印象がある。つまり、"ここまでできる"のだ。

なお、図録の写真に、1.スナップ臭が背後に漂う生まっぽい質感(絵画について) 2.いわゆる図鑑的な、空気感のない標本としての質感(それ以外の、写真や映像、インスタレーション) の2つが混在してるのが気に掛かった。これは面白みなのか、不徹底なのか?

March 14, 2014

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中目黒にて同僚の送別会をスペイン料理屋でやる。

会の始まる前に、The Container(美容院店内の一角に在る)にて荒木くんの個展"Wrong Translation"を観る。

スペイン、ポルトガル、イタリアと、日本の映像のカット・アップ。宣教師アンジロウの声。大航海時代のヨーロッパと日本とを繋ぐ関連の束が提示される。
口の中に仕込んだカメラによって撮影された映像(口唇により、風景がアーモンド型に切り取られる)を横に2つ並べることで、目であるかのようなイメージを引き起こす。最後に暗転したとき、露出オーバーの映像が目に焼き付いて暗闇に両目が浮かんだようにみえる。目で(見えない)目を見てる、目の内側(口の中から)から目を見てる、のような。
展示空間が店内に在るため、美容院内の作業音が作品の音環境に浸潤してくる。全体的に音量は問題ない。が、ナレーションは音量レベルが低くて聴き取りにくいとも感じた。スピーカーが背後側に設置されていたが、これは「後ろから幽霊が語りかけるような効果」を期待したとのこと。インスタレーションとしては音環境の設計に課題があるように思う。

March 10, 2014

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日吉駅に在る書店にて、
『軍事研究』(No.577, Apl., 2014.)、
を購入した。

March 8, 2014

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二子玉川に在る玉川大師へ行き、地下霊場巡りをしてきた。
完全な暗闇の中を、行く手が上に下に右に左に道が捻じ曲げられていて、存在不覚に陥る・

March 6, 2014

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Amazonにて注文してた、
松村劭『三千年の海戦史・下』(中央公論新社、2010年)、
金子常規『兵器と戦術の世界史』(中央公論新社、2013年)、
浜野喬士『カント『判断力批判』研究——超感性的なもの、認識一般、根拠』(作品社、2014年)、
を受取った。

March 5, 2014

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通勤の行き掛けに在るコンビニにて、
荒川弘『銀の匙』(Bd.11)、
を購入した。
帰りしな、元住吉に在る中古本屋にて、
島本和彦『アオイホノオ』(Bd.2、3)、
を購入した。
帰宅して、Amazonにて注文してた、
松村劭『名将たちの戦争学』(文芸春秋、2001年)、
松村劭『ゲリラの戦争学』(文芸春秋、2002年)、
同『三千年の海戦史・上』(中央公論新社、2010年)、
同『戦術と指揮 命令の与え方・集団の動かし方』(PHP研究所、2006年)、
を受取った。

March 4, 2014

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Amazonにて注文してた、
松村劭『名将たちの戦争学』(文芸春秋、2001年)、
斎藤秀昭・森晃徳『視覚認知と聴覚認知』(オーム社、1999年)、
を受取った。