May 28, 2008

untitled

新宿三丁目の古書店にて
安藤昌益『統道真伝(上・下)』(岩波書店、1966/67年)を購入する。

生活は相変わらず苦々しいものであるけれど、
こうして数百年前に書かれた文章を手に取り読む事が出来ると云うのは
やはりそれなりに幸せなことだと思う。

May 26, 2008

untitled

火星探査機 "Phoenix" が火星への着陸に成功した。

NASA - Phoenix >>>
 http://www.nasa.gov/mission_pages/phoenix/main/index.html
Phoenix Mars Mission (Arizona Univ.) >>>
 http://phoenix.lpl.arizona.edu/index.php

May 21, 2008

untitled

 今日は昼過ぎに日吉での用事を済ませた後、東急東横線で渋谷へと行き書店を巡った。
書店では、
Agamben, G.『スタンツェ——西洋文化における言葉とイメージ(Stanze)』、
Derrida, J.『条件なき大学(L’Université sans condition)』、
同『マルクスの亡霊たち——負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル(Spectres de Marx: L'etat de la dette, le travail du deuil et la nouvelle Internationale)』、
Negri, A./Hardt, M.『ディオニュソスの労働——国家形態批判(Labor of Dionysus: A Critique of the State-Form)』
などを手に取り、流し読みをする。
どれもこれも今直ぐに読みたくて仕方が無い。が、それらの購入は見合わせた——読む為の時間が無いと云うよりも、寧ろ購入する為の持ち合わせが無かったからだ。(人文書の類いは屢々、購入するには高価過ぎるということがある)
散々に悩み抜いた挙げ句に
『ロベスピエール/毛沢東——革命とテロル』(長原豊・松本潤一郎訳、河出書房新社、2008年)[=Zězěk, S. "MAO Tse-Yung, THE MARXIST LORD OF MISRULE and ROBESPIERRE, OR, THE "DIVINE, VIOLENCE" OF TERROR" 2007.]
を購入する。
と云うのも、やはり Melville, H. "Bartleby the Scrivener" に関する記述に惹かれたからだった。

 それから快快『ジンジャーに乗って』のソワレを観る為に王子へと赴く。会場で初音さんに遇う——前回『霊感少女ヒドミ』公演の後、新宿2丁目で呑んだ時以来久々であったから、彼女と歓談しながらも私は心底すっかり舞い上がってしまった。少しだけ幸せな気分になった。

May 18, 2008

快快『ジンジャーに乗って』の雑感。

 面白かった。僕にとっては非常に興味深い作品だったし、何より肩肘張らず気楽に観ることができた。前作の『霊感少女ヒドミ』もだけれど、それ以前の作品でも同様に描かれ続けている「東京」という都市の肖像が、雑然として生々しく目の前に開けていく。それが本作では「これでもか」というほど一層にあざやかだった。
 劇中に繰り返される「わかんない」と「ひさしぶり」に、僕は雑踏での邂逅を見た気がする。これは日常生活にある他者とのちょっとした擦れ違いのなかにも生じる触れ合いの質感とでも言えるだろうか、例えば肩を寄せてひしめき合う存在の喧噪への耐えられなさや、ふと他人同士の手と手がぶつかり合ってぱちんと乾いた音を鳴らすときに感じるスリル——都市が内包する刹那の緊張感——が、ダンス中の不安定な身体性に集約されていく。瞬間瞬間が、ふつふつと忘我の彼方へと消え去ってはまた新たに次々と現れてくる。浮遊ではなく"滑走"という感じ。キェルケゴールが「ほんとうの反復は前方に向って追憶される」と言ったように、延々と続くかのような「日常」の経験は、決死の跳躍、そして束の間の浮遊感の後に現れてくる欲動の滑空であり、重力との均衡を保ち続けるような滑走の疾走感なのだ。
 終演後の舞台に残存する気分は確かに切ない。が、これはノスタルジーなどではなく圧倒的なリアリティなんだと思う。
 「セグウェイに乗って、何もしない」——約めて言えばそういう印象の作品だろうか。この「何もしない」ということが、演劇における物語ることの過剰さ(「無駄」)を通じて描かれていく。それは、一幕においてはベケットを通じて、二幕では前幕の再現と展開を通じて、そして最後には、まるで折り紙を開け広げ解体したかのような幾筋もの折り目だけが残される。が、この折り目に物語の痕跡を認めてノスタルジーを感じても仕方がないのは上に述べた通り。
 本作では、日常にぽっかりと空いたエアポケットのような瞬間に感じられる爽快感が「晴れた日の散歩」として登場する。この感覚がもし、本作の演出シノダがアフター・トークで語っていたような「瞬間が死んでいく」こと(ハイデガーなら「先駆的了解」とでも言いそうなもの。本作では、演者が立ち上がって台詞を口にしては倒れる、という動作に還元されている)へも通じていくのだとすれば、それは「再極限の未了」(死の直前)でのスリリングな戯れともみえてくる。こうやってハイデガーを引き合いに出して語ると嫌が応なく壮語的な匂いがしてしまうものだけれど、この種の想像力が案外バカにならない作品だなと思った。
 近頃では他人の死が当然のごとく記述されていく時代になったが、それが戦時下のような肉体的な死の感覚とは違うとしても、やはりそれとは別種の仕方でありありと平明に認識されるようになっている。そして現に、インターネットを通じて今までは考えられなかったようなより多くの死亡者数を目の当たりにしている。だから焼け野原の六本木と普段の会話で口にするようないわゆる今の六本木とが結び合わされることには、もはや何の不思議もない。「死」を口にすると相変わらずドラマチックな感じのする世の中ではあるけれど、それでも自らの死は相変わらず自分自身のリアリティの核としてあり続ける(本作では「期限」とか「終わり」とか言われている)し、他者にとってもなお歴然とした事実としてはあり続けている。例えば死に関する記憶と事実とに向かい合った場合、そのような記憶は単に追憶されるものだとしても、事実はやはり事実として反復される(キェルケゴール的な「反復」は、初めて現れる出来事が既に在ったもののように繰り返される予言的な振る舞いをする)。だから2度目のデモのシーンのダンスから受ける爽快感は、こういう"強度の反復"——言うなれば「日常」の絶対的な肯定——によって現れるマイナー・トーンの清々しさなんだろうと思う。僕はこれを「生かされていることの自由さ」とでも言いたい。

08.05.18_17:23

faifai "Ride on Ginger"

May 16, 2008

08.05.16_21:11

faifai "Ride on Ginger"

May 15, 2008

untitled

オルハン・パムクが来日。
そう云えば以前にM先生から『私の名は紅』を薦められたのだが、
まだ読めていない。
青山学院大学でのシンポジウムは、
公演期間と重なっている為に行く事が出来なかった。

#
CDを2枚購入する。
1枚は ORFEO 盤 Furtwãngler, W. - Beethoven Symp. No. 9(Live. 29 Jul 1951)—— EMI 盤とは別音源のバイロイト。
もう1枚は TELAC 盤 Kunzel, E. - Tchaikovsky "1812" Overture(6 Sep1978)——ノーリミッタのデジタル収録による教会の鐘や大砲の音響、"Damage could result to speakers or other components if the musical program is play back at excessively high levels." の注意書きは健在。

May 14, 2008

untitled

快快『ジンジャーに乗って』の客席照明設置の為に王子小劇場へ行く。
今日でやっと、一先ずの完成に至る。
作業は三日目に突入していた。
けれども毎日セグウェイに乗れるのだから、少しだけ幸せ。

May 8, 2008

快快『ジンジャーに乗って』についての試論。

 快快『ジンジャーに乗って』の稽古に二三度立ち会った際、それを観て直ぐに想起したのはベケットの事であったが、今となっては寧ろメルヴィルの『バートルビー』こそがこの作品を読み解く上での立脚点になるのではないか、と云う印象が強い。
 演劇に於いては、「舞台」と云う枠付けが観者に承認されたその時から、例え展開される物語が不条理であり現実離れしたものだとしても、舞台上に投げ出されたものは何であれ対象(ob-jet)として観られ、関連付けられ、鑑賞経験上の持続として文脈を構成する。言うなれば時間経験が暴力的に空間化される表現形態こそが「演劇」であり、舞台面に搦め捕られた対象は図らずも「物語ること」を強制されている。ましてや主体たる演者は、その意志力を以て尚更観るべきものとして観られていると云う点に抗う事は最早出来ないだろう。つまり演者は、単に舞台上に立つと云うだけで過剰なのである。
 このように、演者は「舞台」が及ぶ圏域を規定するし、逆に演者は「舞台」と云う枠付けの効果により日常的な条理の一切から切り離されている。言うなれば相補的な関係が成立している。舞台上の対象は、観るべきものとして観られる、或いは、観るべきではないものとして観られる。このような「べき」の及ぼす道徳的な効果と、然しながら依然として観られる対象としては残存し続ける保留性の、その狭間にこそ「舞台」と云う枠付けが露わとなっている。この振れ幅こそが即ち、 prergon(額縁)の持つ厚みである。parergon は ergon(作品)を、その周囲の環境から切り離すと同時に、また ergon からも切り離される。[Derrida, 1978]この二重の境界線の厚みが、鑑賞経験を展開し前進させるような階梯となっているのである。
 『バートルビー』に於いて繰り返される定式 "I would prefer not to(しない方がいいのですが)" は、舞台上に於けるこのような潜勢力の現勢化を明らかにする為のヒントとなるだろう。バートルビーは「それをしない」と云う事で、一体何を実現しているだろうか? この定式に対して、雇主である法律家は "You will not?(したくないのか?)" と彼に尋ねる。これはつまり彼自身の意志への問い掛けであるが、彼はそれに対しても "I prefer not(しない方がいいのです)" と述べる。言うなればこの書き換えに於いて露わとなるのは、彼自身に於ける"意志"の否定である。つまり彼は、潜勢力の現勢力への移行に伴う意志の力を自ら否定する事で、彼自身が潜勢力の場を体現するのである。(「純粋な潜勢力という状態にあって、存在と無との彼方で、「より以上ではない」をもちこたえることができるということ、存在と無の両方を超出する非の潜勢力という可能性のうちに最後まで留まるということ——これがバートルビーの試練である」[Agamben, 1993])
 では、舞台上に於いて「何もしないこと」とはどのようなものであるのか? 何もしない状態に於いてすら、演者の行為は"何もしない演技"として「物語ること」を担わされてしまう。と云うのも、「舞台」という枠付けが観者に承認され続けている限り、演者の放つ意志力は尚過剰な状態にあるからだ。そして何よりも危険な事は、演者が舞台上に於いて「演じないこと」の態度表明をすることである。と云うのも、演者による「舞台」の枠付けと「舞台」の成立は同時であり、演者は「舞台」の成立に対しては宣言的な地位を占めているから、そのような表明は先ず作品内に於ける断裂を招くのである。つまり、分断化され複数化された「作品」の一体性を保証するものは、それらを包括するさらなる上位の基底であり、そのような再-回収により「舞台」は後続性を伴って延長されるのだ。言うなれば、演者の備える潜勢力が"断念"というかたちで露わとなるのがこの形式である。
 だが、作品内の断裂を避けながらも、今まさに現れつつある演者の潜勢力を舞台上に留めておくにはどうすればよいだろうか? 私はこの問いに対して、"演者の忘我" についてを言いたい欲求に駆られる。例えばそれは、舞台上の演者が不意に自らが次に成すべき事柄を忘却してしまい、「舞台」を保持しながらも何とか物語ることの持続を回復しようとするときに現れる作品上の裂け目である。忘我に際した演者は舞台上に於いて生身の身体を晒す危険性を伴う、と同時に、自らに課せられた役柄を遂行しようとする演者に於いては「演じること」それ自体の純粋な発露が現れている。つまり、演者と演じることとの重なりは演者の意志により規定され、即ち「観られるべきもの」として観者の承認を受けるが、この「意志」の否定に於いても尚「舞台」が継続される場にこそ演者の潜勢力が「演じ」として露わになるのである。

 これら上記の印象は数日前の稽古場においてのものであるから、本番までにはまた更に作品から受ける印象が変じていくことだろう。だから、これらの記述は雑感としての一時的な試論に他ならない。

#
Deridda, J. 1978 "La Vérité en Peinture" = 高橋允昭/阿部宏慈訳『絵画における真理』1997。
Agamben, G. 1993 "Bartleby o della contingenza" = 高桑和巳訳『バートルビー——偶然性について』2005。

May 6, 2008

untitled

『Ghost Hound 神霊狩』を全話観る。

洗足池へ行き、快快『ジンジャーに乗って』の稽古に顔を出す。

時間にさえ都合が付けば、安藤昌益を読みたい。

May 5, 2008

untitled

Nancy, J.-L.『無為の共同体(La Communautéœvrée)』を読み終える。

洗足池へ行き、快快『ジンジャーに乗って』の稽古に顔を出す。
稽古場にて、Beckett, S.『ゴドーを待ちながら(En attendant Godot)』を読み直す。

結局、連休中に読めた本はと云えば4冊ばかり——先に挙げた2冊と、岡崎乾二郎『ルネサンス 経験の条件』、Levinas, E.『他性と超越(Altétité et Transcendance)』、それに『古事記』と『日本書紀』の断片、浄瑠璃関連の書籍数冊の断片。

May 1, 2008

untitled

市立図書館にて、"リサイクル図書"となっていた朝日新聞社編『阪神・淡路大震災誌』を手に入れる。

第2回「泉の会」に参加する。