May 31, 2009

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アフォリズム小説——400字詰め原稿用紙5枚以内の、さらにはその2枚以下から序々に俳句へと至るような——を書くことは難しい。だが、このような形式の小説を、例えば娯楽小説——マーケティングと云う無味蒙昧を模倣するように、歴然と他立するようなものを目指した——として書くのであれば、それは容易い作業になるかもしれない。何しろ大衆的な気分は花火のようにぱっと灯って、そして余韻も無く闇へと消え行く忍耐の欠如があるから。

※私が日本語に於いて"アフォリズム小説"と云うものを思考する際には、デリダの邦訳の内から幾つかの文体を盗み出している。

バルセローナ、サンパウロー、カツフエー、アクタイオーン……。
私は長音の具合をひた確かめながら、慎重にギリシアふうの音韻を確かめていった。

現代の価値とは、コカ・コーラのように——飲めば飲むほどにますます喉が渇く——欠如が必須なのだ。

May 30, 2009

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元住吉の中古本屋にて、
手塚治虫『三つ目がとおる』(Bd. 1)、
飯島宗享訳『初恋』(未知谷、2000年)[=Kierkegaard, S. "Enten - Eller, A-2" 1920.]、
を購入した。

May 29, 2009

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不安に駆られて描いた一枚というものは、当然ながら我々の心底を打つ訳では無い。

さも分かったように書く。決して分かった振りをして書くのではなく。

作品に対して批評的な態度を取り続けるほどに、私は作品との距離を明晰に隔てていく。

私は聞いた——まだ幼い子供が○○と言うのを。私は確かに(それを)聞き逃さなかったのだ。

The Google was the Eshlon, you see.

近頃では人々は余りに自身の無知をおくびなく晒す。
そうでなければ「ググれカス」の知ったかぶりか。
無論として、無知はそれ自体としては恥ではない。
やもすれば様々な無知の最中で人は常に何かを述べなければならないし、またそのように要請されもする。
だからこそこのような不確かさの上でも語気を強く保たねばならないが、それは言い切りの良さや断定に価値があるのではない。
自分がそれについて知らないということを安易に覆い隠すべきではなく、無知というものは常に発言の余地として保持しなければならない。
このことについて、一般的に言われているのは謙虚さ、広義には厳密さ、である。

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まだ?

「芸術が分からない」などと言って嘆いている人間を見ると、手を差し伸べたくなる。芸術の価値は、善し悪しや好き嫌いで定められるものでは、勿論無い。先ずは作品を観て「どう思うか」で充分ではないか。確かに「芸術とは何か」の問い立てに答えることは難しい。が、言葉にし難いものを直ぐに"難解なもの"と決めつけ、高尚なものに仕立て上げてしまう風潮は如何なものかと私は思う。何なれば芸術とは、人間であれば誰にでも感じ得るものであるし、また理解し得るものであると私は考えている。確かに、芸術を享受する為の余暇は必要となる。生活に余裕が無く、唯追い捲くられるように生きている或る種の人々にとって、また芸術とは余りに馴染みが無いものであり、そしてそのようなものとしてこの世の中は出来つつある。とは云え、それが為に芸術が必要な人間と、そうで無い人間とに是が非でも分けようとするような風潮はけしからんのだ。所詮は"するかしないか"であって、”分かるか否か”の問題では無い。「芸術が分かる」と言って特権意識を持つ人々よケツ喰らえ! あなたら素人が芸術について云々言うのはまだ早いのではなかろうか。ならば論じてみ給え! 何かものを言うだけならば誰にでも出来る。そう、"誰にだって"それは簡単なことなのだ。たかがその程度のことに、正当性もクソもあったものだろうか? 私にはここまで芸術に対して意固地に振る舞おうとする当世の風潮それ自体がよく分からない。だから、「芸術とは実に無感動なものだよ」と——こう言ってやれ。何故なら人々はこの無感動に、言うなれば余りに無感動で居る自分自身の感情に対して感動するのである。とすればこの感動とは、実に彼ら自身の持ち物である。この感情には何らの外的な理由が無く、それ故に純粋であり、だからこそ確信を以て誤謬へと陥りがちなのだ。感動は、心情の空虚へと向かって猛烈な勢いで惹き付けられていく——すると人々はあっと驚きふためいてしまうのだ。馬鹿らしい。「私はこの余りに素晴らしい感動を作品から受け取ったのだ」、否、そうでは無くて、このような感動は作品からは桁外れに離れ過ぎている。或いは「反射」と呼び得るほどに対極にある(だからこそ人々は、このように大きな感情のやり場を作品の上に理由付けようとする)。ところで考えてもみ給え。君らは当該の作品それ自体からは一体何を受け取り、またどのような仕方で関与したと言い得るのだろうか。
私は、——と云うような夢を見た。

May 27, 2009

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元住吉の中古本屋にて、
手塚治虫『ブラック・ジャック』(Bd. 1-6)[DX版]、
を購入した。
レンタル・ビデオ展にて、
ミシェル・ゴンドリー『僕らのミライへ逆回転』
を借りた。
冒頭の鏡文字、結末でのスクリーンの反転が一続きのセリーとなっている。
部屋の中から外へ。音声は消え、サイレンとに。
架空の人物の共在化と、承認。

May 24, 2009

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銀座テアトル・シネマにて
オリビエ・アサヤス『夏時間』(Olivier Assayas "L'HEURE D'ETE" 2008.)
を観る。
母の死を通じて出来事が進行する。
母への個人的な感情は、全てこの出来事に先行する祖父の死へと執拗に逸らされていく。
この作品において、肉親の死に対するセンチメンタリズムは徹底的に避けられている。
通俗的な「個人的な体験」からは離れて、もっと社会的な関連構造が描かれている。
(端的には終盤部のオルセー美術館のシーン)
歴史的な画家である祖父の死と、その遺産(具体的なものを含め、さらには文化的な価値へと拡大する)の相続というモチーフ——
ひいては客観的な意味合いにおける世代間の関連が、この作品の主題である。

May 23, 2009

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先週に引き続き東京国立近代美術館へ、『ビデオを待ちながら』展を観る。
講演を聴きにいく時間が無かったことは残念だ。
珍しく2時間ほど観て回った。
中々楽しめた。
が、キャプションの極めて断定的な口調——そして、やもすれば何かを論じ立てているような若書きの青臭さには否定的な気分を持った。
一見すると啓蒙的な、作品の核心へとせまるように要請するかの要点書きは、然しながら観者の浅はかな知識体系を固着させてしまう。
知識を持たない者に対しては固定観念を与えるし、多少なりとも知識のある者に対しては蛇足であり、さらには誤謬を与えもする。

それから「なびす画廊」へ行き、『利部志穂』展を観る。
彼女はこの空間にすっかり手慣れたようで、だからこそ余り目新しいものはなかった。
生まの植物、コンセントからの電気供給により駆動し続けるモーターやコンピュータ・ディスプレイ。
まるで下町の露地に居るかの乱雑と静けさがある。
「ディスプレイ(展示物)」とまではあからさまに提示されてはいないのだが、一つひとつの対称はあくまで見られるべきものとして最低限に留められている。
彼女がこの空間で展示を行うのは4回目になるが、このように手慣れた所作が、他の空間を扱う際のエピゴーネン(雛形)になるのだと思う。
そうこうするうちに撤去作業が始まり、それまでは堅固な組み合わせを維持しているように思えたそれぞれの"かたまり"が、解体の簡便さの順位に従って次々とバラバラにされていった。
それを眺めながら、帰りしなにMkrさんから『美術手帖』のバックナンバー(Vol. 57, No. 872, 2005./ Vol. 60, No. 903-906, 909, 915. 2008./ Vol. 61, No. 917, 920, 2009.)を頂いた。昨年11月に hiromiyoshii にて Dahlem, B. の展示が行われていたのを知らなかったことは迂闊だった(B.N.に目を通していて気が付いたから)。私はこの雑誌への興味を失って暫く経つが、相変わらず何かしらの手段で手許にはほぼ一続きのものが手に入るようになっている。必要と思われる箇所には目は通して、少しの間を書庫に留め置いたら、あとは誰かに譲るなりするつもりだ。

May 20, 2009

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話題はいつしか拗れて、――やがて別れ話になった。
彼女も私も負けん気が強いものだから、お互いに立場を一歩も譲らなかった。
そして、とうとう彼女の方から口火を切った。
だから私はここぞとばかり彼女のことを責め立てた。
議論となれば結局は男が勝つのだ。
彼女の口振りは、段々とどうでもよい理由で埋め尽くされていった。
最早無意味な"勝ち負け"の理由に突き動かされて、私はより一層過激になっていく。
私は、既に彼女のことをこてんぱんにやり込めたい気分でいっぱいだった。
すると彼女は泣き出した。
泣きながらに彼女は捲し立てていた。
私は心底満足感に満たされていた。
が、それと同時に後悔の心持ちにもなった。
涙を流しながら、必死に弁解するような口調に変わった彼女はとても可愛らしかった。
私は安堵した。
それから、私は彼女の涙に救われた気がした。
彼女が泣いてくれなければ、私はどこまでも彼女の冷徹さを呪っただろうに。
これまでの彼女の素振りを思い返して、そこかしこに彼女の善意のかたちを見て取ったのだった。
私は初めて、やっと彼女の本心に触れたような気がした。
今まで恐れていて、やもすると"気遣い"と称して怖じ気付いていた私の本心を笑った。
これまで以上に彼女のことが愛しかった。
のみならず私たちは離れて、これからはもう二度と会うこともないのだから。
これからは彼女の気分を全て理解出来るのに――と思うと、残念で仕方なかった。
一方で私は愛され、その他方で私は次第に嫌われ、無下にされていくのだ。
「彼女に身を寄せると、その口は葡萄酒臭かった。」

――と云うような夢を、私は見た。

May 17, 2009

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昨日に引き続き、飯田橋の日仏学院へ。「オリヴィエ・アサイヤス特集」プログラムのうち『デーモンラヴァー』("Demonlover" 2001.)と『ノイズ』("Noise" 2003.)を続けて観る。上演後、ジム・オルーク/青山真治の対談があった。対談後のライブには行かなかった。
『デーモンラヴァー』は、結末部へと至る過程によくわからない点があった。主人公が同僚を撃ち殺すシーンのアンヴィヴァレントな行動が物語を読み取る基点となるように思う。
『ノイズ』は、ノイズ・ミュージックを聴いていると、気分の善し悪しにより音楽から興味が離れて眠たくなることがあるが、この作品も例に漏れず、所々で個人的には退屈な瞬間があった。この感覚は人それぞれ、仕方のない点だと思う。Sonic Youth としては作品中に登場しない(このイヴェントの2日目に Sonic Youth のライブがあったようだが、その映像は作品中に収められていない)。
対談後、相変わらず退屈な質問をする輩がいた。否、あれは質問ではなく、唯、独自の見解を述べているに過ぎない。まるで己の特殊性を誇示するか、或いはひけらかすかのように、自己完結の見解を述べるのはいいが、舞い上がり、結局はそれを質問としての文脈にまとめることが出来ずに、口籠り、挙げ句に受け手は解答に苦慮する、という具合に。思うにこの傾向は非専門家に多い、思い込みが強過ぎる結果、感想を断定的に提示しがちだ。又、専門家やそれに準ずる知識を持っている聴衆は、講演内容にあらかた興味を満足させられるからか、或いは質問内容が専門的であり過ぎるのを嫌って控えるためなのか。結局はそうやって、講演会やシンポジウムでの質問で、良い質問に出会すことは少ない。

May 16, 2009

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竹橋へ。『ヴィデオを待ちながら——映像、60年代から今日へ』展(@東京国立近代美術館)の講演会、N先生の「60-70年代の構造映画と美術」を聞きに行く。
映画作家と美術作家とで映像の質が異なるということについて。
質問が長引いた為に展示を観る時間が無かった。来週、Kさんの講演会に参加しがてらに観ようと思う。
最初の質問は、要領は得なかったがN先生がいま抱えている疑問が詳らかになったという点で、結果的には有益な質問となった。
第二、第三の質問は、自身の意見表明に他ならず、質問としては必然性に欠けるものだった。蛇足である。
それから飯田橋にある日仏学院へ行き、「オリヴィエ・アサイヤス特集」プログラムのうちの一つ、『HHH:候孝賢』("HHH, portrait de Hou Hsiao-Hsien" 1997.)を観る。英語字幕。映画監督、候孝賢氏へのインタヴューを中心としたドキュメンタリー映画。奇妙なカメラワーク——おそらくフランス人の職業カメラマンによる——が興味深い、地となる語りに並行して、カメラマンの興味の赴くままに、思惟的な画面構成が散見される。スクーター、山芋の皮を剥く店員、カラオケのシーンに登場すると或る女性に対して。
最後は中国語で『乾杯』を熱唱する候氏。

May 15, 2009

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日吉駅の書店にて、
『軍事研究』(No. 519, Jun, 2009)、
を購入した。

May 13, 2009

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まだ?

人間は、対象の裡に存する根源性を、即ち自己と対象との関係を鑑みるに対象がどこまでも自己に対して先立っているのを感知し、それを崇高なものと捉えて、神への憧憬を自覚するに至るのである。

だが、まだ。

——まだ?

見掛けの上で永遠なる対象(もの)が自己に対して常に先立つのは、神(この時点では括弧書きされている)への憧憬をこの第一の理由に据えるからである。

世界が自己に対して先立つ感じを「理性」、自己が世界を自称として対象化する感じを「悟性」とすれば、この「感じ」というものがカント的な意味合いの「感性」であると説明する。

「感じ」を対象化した際には、最早それを起点(基点?)として生じた理性と悟性とは本性を曖昧なものへと変じてしまうのだから、「感じ」を対象化しようという意志は、どこまで行ってもやはり不明瞭なものになってしまうのである。

先ず「神」という対象があり、それと同時に神の「永遠なるもの」という性格付けが為されて、次にこのような対象である「神」というものが、果たせるかな「何であるのか」を問い立てる場合にはいつでも、この意志の根底には「神の永遠なる性性格」が先行して忍び込んでいる。

「この永遠なるものが神であるとして、では神とは何であるか?」という具合に、神を対象化することで先行した筈の自己は、常に自身の神に対する定義付けの為に、変わらず神に対しては従属し続けるのである。
曰く「神は世界を創造した」。
曰く「世界は神の発した言葉と同時に在る」、云々。

見掛け上、悟性的であった問い立てが、その実"理性的なもの"であったことに対しての気付きこそが、まるで「アキレウスの亀」であるかのように。

まだ。こんなものは単なる"騙し討ち"に過ぎない。

言葉を有するものはこの世界にただ人間が在るのみである。ところで言葉の本性は"神の所有の裡に存する”から、人間は言葉に於いては常に世界に対して述べ過ぎるのである。因って以下、云々。

「すなわち精神としての神は顕わとはならないであろう。」——何故なら精神こそが神の本性に他ならないものであるから。以下、云々。

まだ、まだ。まだ。三度まだ!
未だ、未だ。未だ。三度未だ。

よってシェリングは「悪の可能性」と定義するに至る。何故なら、彼にとっての「悪」とは、まさに対象に於ける両原理(同一性)の可分裂性を明らかにする原理だから。

※対称性とは即ち「主観上の同一性」の代わり名に他ならない。

人間は観念的原理との統一に於いて或る余地を見出だしてしまう。これこそが人間にとっての価値ある前進——。"I Think …"の極点である。これこそが、定義付けや、或いは定義の運用という行為のそもそもの誤謬である。


(いま改めて読み返してみると、さっぱり訳が分からない:2013/09/23)

May 11, 2009

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インタヴューを受けて——。

——プレイヤーのやりたいこと"しかできない"ゲーム、そういう対象がこの世の中には必要なのです。とはいえ、少なくとも、多くの人々がこのコンテンツを積極的に楽しむことになるでしょう。我々は暫しその状況の埒外に置かれますが、これは本当に少しの間だけなのです。

May 7, 2009

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元住吉にある中古本屋にて、
手塚治虫『ブラック・ジャック』(Bd. 8、9)
を購入した。

May 6, 2009

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ウェス・アンダーソン『ライフ・アクアティック』(Wesley Anderson "The Life Aquatic with Steve Zissou" 2004.)を観た。

May 5, 2009

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元住吉にある中古本屋にて、
手塚治虫『ブラック・ジャック』(Bd. 16)
を購入した。
ウェス・アンダーソン『ダージリン急行』を観た。
ホー・シャオシェンのDVDはPS2で再生することが出来なかった。

May 4, 2009

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新居へ引っ越してから暫くの間、私はブリキ製のバケツをゴミ箱として用い、生ゴミから可燃ゴミまで生活上に発生したあらゆるゴミをこの中へと投げ込んでいた。転居してから少しの間は冬のまだ寒い時期であったから都合が良かった。あらゆるものはこの冷気によって腐敗を免れていた。が、春の訪れとともに陽気がそこかしこへ充満するようになると、あらゆるものは腐敗から免れ得ないようになる。

火と水と、卵の殻は類似している。

また、木と土は、それらとは別の系統に属している。

貝殻は水との関連によれば火に属しているのだが、髪の毛やアブラナの茎との交わりによっては木と土との関連に属することになる。なぜならこれらのものは火により腐敗することが定められている為に、土や木との関連を先取しているからである。

May 1, 2009

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元住吉にある中古本屋にて、
手塚治虫『ブラック・ジャック』(Bd. 12、13)
を購入した。