February 28, 2009

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友人Yさんが私の家へ訪ねてきて、お好み焼きを作って食べた。
その前に、食材を買い揃える際に、商店街に在る中古本屋で、
高橋葉介『夢幻紳士 逢魔篇』(早川書房、2006年)
を購入した。

February 26, 2009

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夢から得られるものは、このところ何もなくなってしまった。
この夢というものが、見るものではなく、単に見せられるものになったことから、夢を見たいという欲求も消えてしまった。
夢が現実を拡張したものではなく、ただ現実の付随物になった時点から、夢には何らの面白味もなく、残るものは確認という作業に過ぎないという訳だが。
既に起きたことを、異なる形式において認識すること——これが今、私にとってある夢のかたちなのだ。
そこに新しいものを見出だすことは難しいだろう。
夢とは、実に主体的な経験情報の別途のかたちに他ならない。
では仮に、夢がこのように何らかを繰り返すものであり、かつ夢に現れてくる出来事が全き新しい物事だとすれば、その事柄が現実において現れる場合は何であろうか。
現実において新たに起こる出来事が、今まさに繰り返されるようにして現れたとしたならば、この既視感の経験とは何であろうか?
換言すれば、夢が現実と平行することとは何であろうか。

February 24, 2009

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今年の冬に帰郷した際、私は父親に向かって「将来的には学者になりたい」と、胸の内を明かした。父親はそれを聞くや笑ったが、然し驚きはしなかった。当然ながら「好きにしろ」というのが、結局のところこの話の落としどころである。

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日吉にある書店で、
岩明均『ヒストリエ』(Bd. 5)
を購入した。

February 23, 2009

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日吉に在る書店で、
山田芳裕『へうげもの』(Bd. 8)
を購入した。

February 22, 2009

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神保町へ行き、同窓のTgw君と待ち合わせ、飲み屋で歓談する。
モバイルコンテンツの色々のアイディアについて話をする。
こういう話していればいつも、ありそうだが意外にもまだないもの——然も、技術的にも実現がそれほど困難ではない——は、当然ながら結構思い付くものである。
要はそのコンテンツが幾らのカネに結び付くかが話の主眼になるが、近頃ではそのテの話題に盛り上がることがとても楽しい。

February 21, 2009

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多摩へ行き立ち会い。
それから小川町へ、日中交流会館にある亜東書店へ行く。
曹春平『闽南建筑』(福建人民出版社、2008年)、
纪红建『明朝抗倭二百年』(华文出版社、2006年)、
を購入する。
友人のKrhさんと源喜堂で待ち合わせ、ついでに、
西田秀穂訳『抽象芸術論—芸術における精神的なもの—』(美術出版社、1958年)[=Kandinsky, W. "Uber das Geistigi in der Kunst" 1956.]、
を購入する。
この古書店へ来るのは、覚えている限りで実に6年振り。
Krhさんから、ダブりで購入したという、
小林康夫/石田英敬/松浦寿輝訳『フーコー・コレクション 2 文学・侵犯』(筑摩書房、2006年)、
を貰う。
それから御茶ノ水へ。中央線に乗り新宿へ。
世界堂へ行き、ロッドリングを買う。
新宿から渋谷、元住吉へ。
駅でTndさんと偶然に鉢合う。
元住吉のカッフェで暫くの間、購入した書籍などを読む。
帰宅路で日用品を買い込む。
生活をするには、思ったよりも色々のものが必要になってくる。
既にあるものを、別の違った機能を備えるものへと代えていくことも必要である。

February 20, 2009

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この日は昼過ぎに日比谷へ行き、
日比谷パティオの特設会場で催されている『テオ・ヤンセン展 —新しい命の形—』を観る。
これは「オランダ年」に託つけた企画らしい。
こういう「〜年」というものはいつの間にか決まっていて、気が付けばあちこちで該当国に因んだ企画が催されている。
どうにもイベント業界へ向けて安定した年間予算を消化しているように思えて仕方がない。
入り口付近から既に、チケット売り場越しに会場内が一望できてしまう。
嫌な予感がする。
チケット代は1500円と、この規模のアート系イベントとしては割高である。
そして会場内へと入って行く。
案の定、目の届く範囲の他には何もない。
展示の仕方やキャプションの形式など、どうもアート系イベントとは余り関わりのないイベント会社による企画のようだ。
この程度の展示規模であれば、企画展であれば500〜800円がせいぜいだ。
チケット価格設定に企画コンセプトのズレを感じる。
とはいえテオ・ヤンセンの作品が日本で展示されるのはこれが初めてのことだそうだ。
そしておそらく、彼の企画展が催されることは今後二度とないのではないだろうか。
そういう意味では貴重な企画展である。
YouTubeなどのWeb上で彼の作品を観ると、その巧妙な動きに先ず圧倒される。
さも精密な作りをしているのだろう、という予想とはウラハラに、私の興奮を打ち破って目の前に露わとなったのは、意外にも素朴な作りであった彼のアニマル(作品)たちである。
プラスチック・パイプとビニル・テープによる造作は、映像から既に見聞きしていた印象とは大きく異なって素朴である。
それどころかガラクタか廃品のようでまるでアウラがない。
彼曰く「死体」——この言葉に案外納得させられる、ビニル・シート製の羽は破れて痛み、関節は所々で脱臼している。
つまりこのままの状態では、これらのアニマルたちは生き生きと動き回ることが出来ない、という意味での「死体」である。
それが堂々と展示されている、という企画の悪趣味にも笑いが起こるのかもしれないが、それよりもこの明け透けなまでの空虚感に私は驚かされた。
この感覚はまるで、以前に横尾忠則『テクナメーション』の中身を空けてみたときのものによく似ている。
さきほどまでの生き生きとした躍動、これは一体どこへ消えてしまったのだろうか? という唖然である。
こんなデタラメな造作がああも生き生きとした生命観を表現してしまうのだ。
このことには脱帽だ、唖然とさせられる。
そして換言するならば、この展示会場には彼の生きたアニマルたちは一つとしてなく、あるのはその記録映像と、そしてその死体という痕跡である。
作品と呼べるものが一つとしてなく、展示された全てが作品の痕跡をただ伝えるに過ぎないものである、という点が、いわゆる美術展とは大きく様相を異にしている。
だがやはり、私はこれら二次的なものから大いに驚きと感銘を受けて、そしてDVDまでも購入してしまったのである。

February 15, 2009

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日吉に在る書店にて、
『軍事研究』(No. 516, Mar., 2009)、
を購入した。

February 13, 2009

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昼休み、日吉駅に在るの書店にて、
木田元監訳『〈象徴形式〉としての遠近法』(筑摩書房、2009年)[=Panofsky, E. "Die Perspektive als "symbolische Form"" 1924-25.]、
吉田禎吾・江川純一訳『贈与論』(筑摩書房、2009年)[=Mauss, M. "Essai sur le don" 1925.]、
若杉公徳『デトロイト・メタル・シティ』(Bd. 7、白泉社、2009年)、
これらを購入した。

February 12, 2009

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新居からの出勤。
歩いて職場へ行けることが嬉しい。
帰宅は24時少し過ぎになった。

February 11, 2009

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引越し当日。
12時前くらいにOghくんが運転する2tロングが到着。
箱詰めしていたものを一先ず運び出してしまう。
それからTgshさんがバスで到着。
バス停まで迎えに行く。
台所周りの荷造りをしながら、片っ端からトラックへ積み込んでいく。
本を詰めた箱は50箱ほど。
荷台に詰め込んでみると案外に量が少ないように見える(思える)。
相当に時間が掛かった。
後半は、専ら捨てる作業に専念する。
部屋の端の方に埋もれていたものは、持って行っても使わない。
16時過ぎにようやく出発。川崎へ。
野猿街道から川崎街道へ、道の名前は多摩川を過ぎたあたりで府中街道に変わる。
2時間ほどで到着。
マンションの前の道路に停車、カーブを避けたため、
入り口から少し離れた位置からの荷下ろし。
トラックから階段の下、階段の下から部屋の前。
私は部屋の前から部屋の中に、あれこれの整理を加えながら
段ボールを仕舞っていく作業。
21時くらいに荷下ろしが終わる。
当然のことながら、部屋中に段ボール箱が散在して在る。
二人と焼肉屋安楽亭へ行き、苦労を労う。

February 10, 2009

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火曜会。
下北沢の、火曜会へ向かう道すがらに在る古本屋で、
多田道太郎・塚崎幹夫訳『遊びと人間』(講談社、1971年)[=Caillois, R. "Les jeux et les Hommes, édition revue et augmentée" 1958.]、
浅田彰『闘争論——スキゾ・キッズの冒険』(筑摩書房、1984年)、
井筒俊彦訳『コーラン』(岩波書店、1957-58年)、
高橋 健二訳『メルヒェン』(新潮社、1973年)[=Hesse, H. "Märchen" 1919.]、
これらを購入した。
『メルヒェン』は、火曜会恒例のプレゼント交換の際に、早速他人の手へ渡った。

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引越し作業のため、有休を取る。
暫く生活が慌ただしかったので、
やおら疲れが現れてきて呆とする。
事務手続きなどを済ませ、
荷造りなどの実質的作業は余り捗らなかった。

February 8, 2009

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Sdくん・GtTくん・Krhさんが手伝いにきてくれる。
荷造り。
大量の段ボール。
後藤くんが段ボールをさらに追加。
六畳間の方はほぼ荷造りが終わる。
台所周りなどの、これ以上の荷造りはスペース的に難しい状況。

February 7, 2009

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荷造り用段ボールを集めにいく。
荷造り用品を買いに行く。
GtTくんが車を出してくれる。
夕方になって、疲れが出て、23時くらいまで眠ってしまう。
それから朝まで、引き続き荷造り。

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荷造り用段ボールを集めにいく。
荷造り用品を買いに行く。
GtTくんが車を出してくれる。
夕方になって、疲れが出て、23時くらいまで眠ってしまう。
それから朝まで、引き続き荷造り。

February 6, 2009

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私たちが流暢で適切な日本語での表現を試みるとき、そこには多くの「こと」や「もの」が省略されている。
(実直に、厳密な仕方で「もの」や「こと」を補ってやると、忽ちにこの日本語は硬直して、そもそもの語の魅力が失われてしまう)
性急に言えば、日本語の主語には主題があるが対象は欠けている。そこには主題を成立させるための志向性だけが存続しているのである。