November 30, 2008

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 Y君と、それとTさんとも待ち合わせて雑司ヶ谷霊園を暫く散策した。池袋でTさんとは別れて、それからY君と青山霊園に向かった。墓地に着くと、陽は傾き始めていた。Y君は「俺たちは天才だ!」と言ってしきり興奮していた。確かに尋常ならざるシチュエイションだろう。冬に差し掛かり、夕暮れになろうという時間に、男二人で、然も人も疎らな墓地を悠々と散策しているのだから——継いで二人にはここに立ち寄る特に明らかな目的もないときている——畢竟俺たちの天才は当然だった。我々は快活に笑った。並み居る過去の偉人たちは皆親しく旧い友人で有るかのように私たちは振る舞った。段々と陽が落ちて、墓石の垂直性がさも明白なもののように現れだした。影は真横に伸びる。墓石の陰を浸していたものが段々と横倒しになってくる。もはや墓石の文字を読むことも適わない。表面だったものが、気付けば内実へ変じている。数多あまたの石、真に硬い充実体らが我らの天才を囲っている。皆陰であり、地面もやはり影である。或いは私の手を浸すものや影だったか陰になったか——。こうなれば遠く街並の端の、文明の灯がより明るいものとなってくる。陽の当たる場所はもう地面に点々と少しばかりしか残されていなかった。やがて全てが真っ暗になった。辺りは夜になった。

November 23, 2008

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 新宿へ行き準久堂で『SITE ZERO/ZERO SITE』(No. 2)を購入した。特集は「情報生態論――生きるためのメディア」——書き手の多彩なことにも惹かれたのだが、それより若手の書き手がどのような文章を書くのかが気になった。今年の春に廃刊となった『10+1』や、或いは『Inter Comunication』、若干個人的な興味を持続させている『Review House』や、最近また面白味を取り戻した『STUDIO VOICE』など、私の興味の範疇にこれらの雑誌と並ぶもののように思われた。
 「TOKYO FILMeX」のコンペティション作品である Kulbai, A. "Strizh"(KZ, 2007.)を観た。概ね面白味が有った。字幕は日本語の他に英語のものが併記されていた。作中に話されていたのはおそらく露語だろうか、全く未知の声音という訳でもないし、英語の字幕は文化的なニュアンスの差異を埋める助けとなった。だが、私はこの作品の結末ついては笑えばよかったのかな? お互いの抱く理由に食い違いを見せながらも、一先ず肩を寄せ合っている父娘の姿にはパトスの固着があるのだが、然し結末のコメディめいた描写によってそれが解決されぬままにいまひとつ腑に落ちない気分が残った。彼女は思いの逸る余りに"CLINIC"の前を通り過ぎてしまった、ということなのだろうか。

November 22, 2008

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近所の中古本量販店にて、
夏目漱石『夢十夜 他二篇』(岩波書店、1986年)、
id.『倫敦塔・幻影の盾 他五篇』(岩波書店、1930年)、
『空想より科学へ』(大内兵衛訳、岩波書店、1946年)[=Engels, F. "Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft" 1883.]、
柳田国男『海上の道』(岩波書店、1978年)、
島田雅彦『美しい魂』(新潮社、2003年)、
岩明均『ヘウレーカ』(白泉社、2002年)、
『ルーマニア国立美術館展』(毎日新聞社、1979年)〔愛知県美術館、図録〕、
『東ドイツ美術の現在』(読売新聞社、1989年)〔西武美術館、図録〕、
Zemeckis, R. "Forrest Gump" 1994.〔VHS〕、
これらを購入した。

November 21, 2008

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 今朝の通勤途中、乗り換えの為に駅からまた駅へと街路を歩いていて、不意に誰かに肩を叩かれた気がして振り返ってみると、友人のYky君がそこにいた。彼は都心に住んでいる筈だから、このように郊外で鉢合わせるのは何だか意外な感じがした。お互い時間を気にしたように、足早に遠ざかりながら二三の言葉を交わして別れた。
 日吉の書店で漆原友紀『蟲師』(Band. 10)を購入した。物語はこの巻で完結となるようだ。
 それから夕方に、また不意の電話が掛かってきた。Yky君からだ。私の自宅の最寄り駅で再び会おうという話になった。私が駅に着くと、彼は(案の定)書店にいた。同窓のTzk君の文章が『現代詩手帖』に掲載しているのを確認していたようだ(彼の文章が紙面に掲載されるのは半年振りであるように覚えている)。駅からのスロープを公園へ向かって登り、オープンカッフェで暫く話をした。寒さは少し緩いのだが、風が吹くと紛れもなく冬の寒さのあるように感じられた。
 歓談の場所を居酒屋へと移して、また暫く彼と色々のことを喋った。彼が、私に向かって「君は作品をつくるべきだよ」と言ってくれたのが嬉しかった。私は3年後には個展をするつもりでいた。作品は油彩であるか金属彫刻であるか、或いは映像や文章になるかはまだ決めていない。だが「君は作品をつくるべきだよ」という彼の言葉が、私にとっては随分と励みになったことは変わらない。

November 16, 2008

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 新宿"COCOON"に開店した BOOK 1st. へ行く。友人と待ち合わせる。

Shinjyuku, Tokyo

 地下通路を通れば意外にも駅からは近い。通路を歩いていて、不意に吹き抜けからの太陽光が差しているのは面白い景だ。ショーウィンドウふうの陳列。カルチャー/ファッション系の雑誌については充実している。新刊とともにバックナンバーを陳列しているのは、便利なこともあるが、大抵の場合では余計だろう。文庫のコーナーは準久堂の方が多いかもしれないが、網羅的に一通りは揃えてある印象。人文書コーナーには行かなかった。
『かくも不吉な欲望』(大森晋輔・松本潤一郎訳、河出書房新社、2008年)[=Klossowski, P. "Un si funeste désir" 1963.]、
『作者の図像学』(林好雄訳、筑摩書房、2008年)[=Nancy, J.-L./Ferrari, F. "Iconographie de l'auteur" 2004.]、
を購入した。
 後者に関して、訳注に82頁も費やすことは馬鹿げている。のみならず、図版目録は、画像に併記すれば必要のない項目だと思われる。
 竹橋へ行き、江戸城天守跡を観る。平川門から天守台へ、「明暦の大火」で焼けた天守台の石組みが、その後の何百年かを経て角が欠けて、幾何学的な線分を現わにしていることが興味深かった。本丸の芝生は紅く色付き、それが小降り雨に濡れて滲み、美しかった。大手門から出て日比谷通りを歩き、銀座中央通りを南下して築地へと向かう。浜離宮を脇目に Nouvel, J. 電通ビルの脇を抜け、築地本願寺へ行く。
 それから丸ノ内線に乗り、新宿三丁目で降り、二丁目の行き慣れたバーでビールを呑む。

November 15, 2008

快快@横浜・リングドーム

 「横浜トリエンナーレ 2008」併催プログラム"idance 80's"の快快(faifai)イベントを観た。

Sakuragi-cho, Yokohama

 段ボールのパネルによって舞台のファサードが設定されている。この段ボールの壁面は、物語の進行によりマジックペンで図像を書き込まれ、穴を穿たれ、そして取り除かれる。最後はリングドームの中で、「五寸釘」と奇声を発しながらパフォーマンスを行う。待ち合わせ場所に現れない誰かとの携帯電話による遣り取り、カップルの他愛もない会話、二股を掛けていた男が見舞われる女同士の修羅場。「笑い」という点では適切なバランス。人間書道は爆笑もの。
 偶然にも居合わせた友人と、カッフェで暫し歓談する。
 その後、野毛の中華料理屋で快快メンバーと酒を呑んだ。のびアニキにサイン入りブロマイドを貰った。

November 13, 2008

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「この倫敦塔を塔橋の上からテームズ河を隔てて眼の前に望んだとき、余は今の人か将た古えの人かと思うまで我を忘れて余念もなく眺め入った。(…)見渡したところ凡ての物が静かである、物憂げに見える、眠っている、皆過去の感じである。そうしてその中に冷然と二十世紀を軽蔑するように立っているのが倫敦塔である。(…)二十世紀の倫敦がわが心の裏から次第に消え去ると同時に眼前の塔影が幻の如き過去の歴史をわが脳裏に描き出して来る。朝起きて啜る渋茶に立つ烟りの寐足らぬ夢の尾を曳くように感ぜらるる。暫くすると向こう岸から長い手を出して余を引張るかと怪しまれて来た。今まで佇立して身動きもしなかった余は急に川を渡って塔に行きたくなった。長い手はなおなお強く余を引く。余は忽ち歩を移して塔橋を渡り懸けた。長い手はぐいぐい牽く。塔橋を渡ってからは一目散に塔門まで馳せ着けた。見る間に三万坪に余る過去の一大磁石は現世に浮遊するこの小鉄屑を吸収しおわった。」

[夏目漱石『倫敦塔』1904年]

November 11, 2008

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‘o pater, anne aliquas ad caelum hinc ire putandum est
sublimis animas iterumque ad tarda reverti
corpora? quae lucis miseris tam dira cupido?’

[Vergilius "Aeneis"]

November 7, 2008

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自宅の最寄り駅に在る書店にて、
『トポフィリア——人間と環境』(小野有五・阿部一訳、筑摩書房、2008年)[=段義孚(Yi-Fu Tuan)"Topophilia : A Study of Environmental Perception, Attitudes, and Values" 1974.]
を購入する。

November 3, 2008

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 今日は、神保町で催されていた「ブックフェスティバル」へ行く。
『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫訳、中央公論社、1980年)[=Shostakovich, D./ed. Volkov, S. "TESTIMONY : The Memoirs of Dmitri Shostakovich" 1979.]、
『ヴァルター・ベンヤミン』(大久保健治訳、河出書房新社、1996年)[=Adorno, T. W. "Über Walter Benjamin" 1970.]、
『世界民族モノ図鑑』(ed.『月刊みんぱく』編集部、明石書店、2004年)、
『近代日本の軌跡——都市と民衆』(ed. 成田龍一、吉川弘文館、1993年)、
『ソ連絵画50年展』(日本経済新聞社、1967年)〔東京国立近代美術館、図録〕、
『ドイツ・リアリズム 1919-1933』(日本経済新聞社、1976年)〔東京国立近代美術館、図録〕、
『スキタイとシルクロード美術展』(日本経済新聞社、1969年)〔東京国立博物館、図録〕、
『古代シリア展』(東京新聞・中日新聞、1977年)〔東京国立博物館、図録〕、
『中国敦煌壁画展』(毎日新聞社、1982年)〔日本橋高島屋、図録〕、
『アングル展』(日本放送協会、1981年)〔国立西洋美術館、図録〕、
『韓国美術五千年展』(朝日新聞社、1976年)〔東京国立博物館、図録〕、
『中華人民共和国出土文物展』(朝日新聞東京本社企画部、1973年)〔東京国立博物館、図録〕、
これらを購入した。
 その後、新宿のカッフェでYky君と待ち合わせ、いつもの如く色々のことを歓談する。彼から大江健三郎『われらの時代』(新潮社、1963年)の文庫本を貰った。私はこれと同じものを持っていた筈なのだが、紛失してしまった為に。

November 2, 2008

『事の縁』(旧坂本小学校・上野)

 昼過ぎに、西日暮里の駅前でTksさんと待ち合わせて、谷中までの道程を並んで歩いた。この日は穏やかに晴れていた。陽射しの有るところは少し汗ばむくらいに暖かく、逆に日陰は冷え々々としていた。風はなかった。
 上野まで歩き、旧坂本小学校で催されているグループ展『事の縁』を観に行った。
(以下、展示の雑感を記しておく)
 残念ながら、展示はどれも詰まらないものばかりだった。利部志穂の作品ですら、面白味に欠けたものだった。総括して述べれば、まだ作品の見せ方については技術的に拙く、そして制作態度としては投げ遣りな「もの」がそのまま「作品」として展示されていた。巷では、そのような「もの」の作り手を早から「作家」と呼んでもてはやすことも多いが、然しそれを観る側にとってみれば堪ったものではない。近頃では展示の頒布物だけが立派な体裁をして、そこに書かれている内容も随分と"それらしい"文言が並び立ててあるが、その一方で展示内容はと言えば非常にお粗末である、ということがよくある。これは偏えに「パッケージ主義」とも言い得る、"企画書先行型"の企画に有り勝ちな事態である。先ず「側」の体裁だけを整えて、後から作家の面々が展示枠に収まる。すると大抵の場合はそれを起点として作家が作品制作に取り掛かるのだから、何やら「企画コンセプト」をそれぞれの工夫で模倣したような(彼らはこの手順を指して「解釈」と言う)、とはいえてんでバラバラで足並みの揃わぬようなものが、外面の良いパッケージングによってひとまとめにされてしまう。作品に対するキュレーションというものは先ずない。あるのは人選だけであるから、企画者の意図は個々の作品に及ぶべくもなく、逆に作り手の方が企画者へと擦り寄るのである。とすればやはり、企画者の"提示の態度"としてみれば随分と無責任である。そしてこれが「にわかキュレーター」の横行と、近年みられるような「アート」と名の付くイベントの頻発へと繋がっている。
 個々の作品についての話に戻すと、そもそも個々の作家たちがそれぞれに「作品」というものに対して"どのような定義"を行っているのかが曖昧であることは大きな問題だろう。「作品」としての成果物が展示空間においてはどのような場を占めるのかについて、明晰な想像の及んでいる作り手はやはり少ない。これは企画者が、単に作家に展示場所を割り当てるだけの存在に過ぎないからであるが、とはいえ作家における責任が全然ないということでもない。なぜなら、今日の作家には、例え彼が画家でありまた彫刻家であったとしても、展示に際しては(上に述べたような状況によって)インスタレーション作家としての最低限の素養が必須となってきている——つまり、そのような条件を受け入れることで、作家は様々な「アート・イベント」での展示の場を得ているとも言えるからである。だが結局のところは、「作品」というもののかたちが成立しないことには、最早何を言うこともできないのであるし、近頃喧伝されている「批評の不在」については、「作品の不在」がその原因であるとも、またこの二つの「不在」が並行しているとも言い得るだろう。これは兎角「卵か、鶏か」のような問題であり、さらには批評の不在に有ってもなお「レヴュー」のような文章が作品に対して飽和し続けていることも、また「批評」と「レヴュー」との弁別がいまだ不十分であることもそのような「不在」の主な要因であるだろう。以上のような事柄に因り、やはり個々の作品について言い得ることは少ない。
 個人的には、宮川有紀の紙製の蔦の作品は面白いと思えた。これは天井から壁伝いに紙製の蔦(トレーシングペーパーに白色で葉脈が印刷されたものを用いて構成されている)が伸びて、校舎特有の水飲み場のシンクへと垂れ下がっているもので、それに対して型板硝子の梨地を透かして屋外の壁を伝う生まの蔦のシルエットが重なり合うという情景を描き出している。これは設置の仕方が控え目に抑えられた調子であることにより、観者を思わずはっとさせる効果を生み出している。趣きが有る。だが、敢えて難じれば、作品空間の右方に配置された小さな紙製の蔦と、サッシに挟み込まれて室内に導き入れられた生まの蔦による、いかにも導入的な演出は蛇足であるだろう。この"右方"というのは、展示の順回路が右から左への方向であったことに理由があったのだと思われるが、私は逆の順路から、左から右へとこの作品を発見したのだし、加えて順路のことを鑑みたとしても然し畢竟蛇足であるとしか思われなかった点は惜しい。
 利部の作品は、屋上への行き止まりとなっている階段に設置されていた。一階層分の階段を登る為には一度中間の踊り場で折り返さねばならないから、この作品空間の終点を一度に見通すことはできない。そしてこの見えない終端らしい場所から、ループ状に加工された機械音のようなものが聞こえてくる。階段に向かって右側の壁にはキャプションが貼られていたが、これは先ず無視した。階段を上り始めて踊り場に差し掛かる手前に、つっかえ棒状の単管が150cmくらいの高さに配置されていて、これを潜り抜けることになる。これは中々に面白い効果を生み出している。踊り場の窓からの逆光に因って(昼間の校舎というものは案外に暗い)、この"つっかえ棒"の出現は不意打ちのようにも感じられるからだ。折り返して次の半階を登る。絶妙の具合で個々のオブジェクト群が、まるで引っ掛けられたかのように配置されているのは、利部作品ならではの緊張感を生んでいる。が、今までの作品に比べると密度に薄い感じはした。そして行き止まりの踊り場に行き着く。だが、「何もない」という印象の方が勝った。案の定設置されていたスピーカからは、(キャプションに拠れば)この場所の近所に在るらしい機織りの音を反復している。これは当展示の企画に沿って、「縁(えにし)」という言葉に懸けられた「場所性」の暗示であるが、それが上手くいっているとは思えなかった。この小部屋状の空間からは、網入硝子越しに屋上の風景の覗き見る事ができる。その窓には小さなインクジェット印刷の風景写真じみたものが貼られていたのだが、これは却って屋上の日向の風景へと向かう視線の妨げとなっているように思える。寧ろ私は、それまでの階段での閉塞感から屋上への開放感(然し実際に足を踏み入れることはできない)に繋がる、何か全体を結論付けるオブジェクトをこの網入硝子の窓越しに期待したと思う。が、それが叶わなかったことはちょっとしたがっかりだった。

November 1, 2008

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自宅の最寄り駅に在る書店にて
『鼻行類』(日高敏隆・羽田節子訳、平凡社、1999年)[=Stümpke, H. "Bau und Leben der Rhinogradentia" 1952.]
を購入する。