February 29, 2008

『national nursery』展

 今日は閏年。出掛けに『Inter Comunication』(No. 64)を買い、電車に乗る。戸谷森『national nursery』展を観に秋山画廊(千駄ヶ谷)へ行く。

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 http://www.akiyama-g.com/exhibition/documents/46.html

February 28, 2008

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 この日は先ず秋葉原へ行きケーブルやプラグ類を買い付けた。重い。キャスター無し、全てを手持ちするには少々辛い。浮き輪のような電気ケーブルひと巻き100mを肩に担ぎ、両手にはプラグ類数箱や特殊工具類の入ったビニル袋、肩掛け鞄からは巨大な結束バンドが数袋顔を覗かせている。
 このような極めて正しい秋葉原スタイルは、無論周囲の目を引く。この姿のまま総武線に乗り込み市ヶ谷へ、Trちゃんとの打ち合わせに行く。
 それから新宿へと移動。

Akihabara, Tokyo


 新宿のジュンク堂にてハイデガー『アリストテレスの現象学的解釈』を購入する。まるで"できたてほやほや"と云う感じのする、小口がぶわっと開いたまま閉じない。
 『エクス・ポ』(vol. 2)を探すも、どうやらフライングだったようだ。

 その後、Galaxy Countach でのイベント・DJぷりぷり「ぷりぷり居酒屋」に顔を出し、すると友人たちがどやどや遅れてやって来たので、結局終電の時間までそこに居座る。途中、数人で寄り集まりトランプに興じる。
 このイベントはDJぷりぷり(イベンター)を中心に、八木沢俊樹(ギャラリスト)と近藤恵介(ペインター)の3人が訪れた客へ自作の料理を振る舞うと云うもの。チャージ料金は1,500円、1ドリンク付き。広く告知されなかった為か、やって来るのは誰かの友人。それ故に「店」と云うよりは「家」、あたかも友人宅で催されたホームパーティのように、その場に於けるコミュニケーションには親密さが強調され、居合わせた人々は互いに誰かの友人としての知人である。だからカウンター・テーブルを挟んだ対面式の会話と店の隅で交わされる密やかな会話、と云う個別の団欒では無く、もてなしは屢々カウンター・テーブルを越えてゆく。さらには客も自作の料理を持ち寄ることで、序々に純粋贈与のすがたが現れてくる。つまりは一旦確立された交換の図式が、コミュニケーションの横溢により次第に解体されていくのだ。とすれば"ぐだぐだ"を避け、この歓待のひと時を枠付け固着する為にはどうすれば善いだろうか? Rirkrit Tiravanija(リクリット・ティラバーニャ)や Félix González-Torres(フェリックス・ゴンザレス=トレス)のことを思い浮かべながら振る舞われた鍋を突ついた。

 ふと、私の周囲には「料理」を趣味として楽しむ人が多いことに気が付く。私はと云えば、特に"食"に対してこだわりを持たないようにも思えるし、そして時には食べることがとても煩わしいもののように感じられる。「料理」と云う作業、この幼児のする工作にも似た手遊びに、心が躍るような時もあるが、それよりは寧ろ空腹により急かされてする労働と云う気分になることの方が多い。そしてどちらかと云えば、使い終わった食器類をお湯で以て洗うことに対してなぜだか至福を感じてしまうのである。
 だからもし、食事について何か楽しみが有るとすれば、それは誰かと向かい合い食事に費やすひと時を共にすることついてだろう。

February 26, 2008

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 小説に於ける全てが口語で行われると云う事、そこに地と図との違いが差し挟まれることが無いということで、文法的な一貫性の欠如は曖昧さの中で許容される。これにより小説家は、その曖昧さの最中に様々なレトリックを差し挟むことが可能になる。言うなれば終始文法的に一貫した文体に於いては読者にすっかり吟味されていた筈のレトリックも、この「曖昧さ」に於いては読者による意図的な無視を受けると云う自由を獲得するに至る。つまりこの時の読者は、すでに小説家の尽くすレトリックの数々をすっかり受け入れる態度で居ると云うことだから、逆に飛躍無しの文体に対しては少なからず退屈を感じてしまうのである。何故ならば読者たちは、口語により確立された小説のスタイルを享受する過程で、寧ろこの曖昧さに頼ることで自身の夢想を充分に駆け巡らす事の快感をも獲得してしまったが為に、読み手による誤読の自由を差し挟む事の出来ない厳密なスタイルの文体に対して嫌悪感すら抱き、さらにはそのような文体を読みこなす為の忍耐力を失ってしまったからである。とすれば読者に対してこの失われた忍耐力の回復を要求する事には甚だ困難が付き纏う。と言うのも、彼らが何に於いても先ず真っ先に信頼するものは己の価値観、自身が何らか対象についての判断を下したと云う事実性に対して最も確信を覚えるのだから、彼ら読者を説得すると云う事が先ず不可能事になってしまっている。だから小説家は、彼らのより感じ易い対象物をその目の前に与えながらも、と同時にその背後から、そっと彼らの無意識へと語り掛けねばならない必要性に迫られている。何なれば技法と云うものには、まるで秘め事であるかのように読者の眼前からは姿を消す振る舞いが求められ、それ故に近頃の小説家たちはこぞって神秘のベールを探し求めている。が、当然ながらそんなものはこの世には無い。そしてどちらかと言えば、彼ら近頃の小説家たちに求められているのは詩人の素養である。

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 キャラクター小説の成立に必要となるのは、何に於いても先ず「キャラクター」である。つまりこの場合の「キャラクター」と云うものは既存のもので、既に"完成形"を備えている。換言すると小説内で用いられる「キャラクター」は、その「小説」の成立に対して先行しているのである。ここで重要な事は、キャラクターの性質は開かれて後天的な要素が付与出来ると云う事、小説とキャラクターとの関係が作品とモチーフとの関係に似ていると云う事、その2点である。一先ず前者について述べれば、既存の小説では物語の展開に従って登場人物の人格が徐々に醸成されていくのに対して、キャラクター小説に於いては登場人物の人格が物語の展開に先立ち既に成立している。それ故に読み手にとっては(寧ろ)物語に於いて描写されていく登場人物たちが「キャラクター」として適正か否かを或る種の批評性に則って吟味する事が可能となる訳であるが、それ故にこのようにして読み手に強いられる「委ねられた作品の自立」への参加が観者の鑑賞経験に於ける"内的(主観的)体験"を過度に補強してしまう為に、「作品の客観的な自立」をまるで彼岸の夢のように扱わざるを得ない点に、私は疑問を感じている。換言すれば、「キャラクター小説」の自立は読み手(観者)の鑑賞経験に対して寄生的だと思われるのである。

February 25, 2008

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 京都大学に於けるこの時期の風物詩、今年の折田先生像は「てんどんまん」だった、中々出来が良い。
 因みに、米国 MIT 恒例の hack により昨年9月、John Harvard 像は Master Chief(Halo 3)へと姿を変えた。

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 http://hacks.mit.edu/Hacks/by_year/2007/halo3_john_harvard/

February 24, 2008

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「(小指値)」の会議に行く。
その場に居合わせた木村氏から『REVIEW HOUSE』を直接手売りして頂く。
紙面では私と同世代の研究者も論考を寄せていて刺激を受けた。
批評文を書きたい、否、その為の"文体"を先ずは用意しなければならない——と、今はまだそのようにしか言えない。

それから久我山へ、「11.P.M」に顔を出す。
今日のゲストは「ミュータント」(吉本興業)、「カプリコーン」時代の"11.P.M Tシャツ"が妙に新鮮に見えた。

08.02.24_01:49


February 23, 2008

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 強い風。今日は本当に強い風が吹いた。高台より見渡せば、朦々と舞い昇る土煙は眼前に広がり、それらが川沿いの低地に沈殿している。街並は黄土色に染まっていた。足下を土埃が攫っていく。上を見遣れば空の青み、色めいて春の匂いがする。やや白んだ雲。まだ肌寒いが、夏の陽射しにも似た直進性の光線も感じられる。地表にはほんのりとした暖かみが湛えられている。その境を、土煙は行きつ戻りつしながらも絶えず自身の体積を露わにしていた。騒々しく交わる風と土、その毛羽立つ表裏一体の境界面に於いては、動相が現れては消えまた消えては現れてと云う具合に、殆ど無限にも感じられた様相が展開されている。それらは個々の領域を持たずにひと続きであり、或る明晰な部分が隆起したかと思えば次の瞬間にはもう跡形も無く消え去っている。この、土煙を構成する細かな粒子の運動や光線の生み出す陰影の加減を通じて、私たちは確かに風の在る事を知る。けれども私たちに見る事が出来るのは、あくまで土煙の変幻だけである。風それ自体を見る事は決して無い。つまり風は、何か明晰な物質の存在に仮託するようにして現象する。有から無へまた無から有へと、このような動相の持続こそが気象の本質である。変幻、その都度、気象が姿を現す為に仮託する物質は異なるが、ただその動相のみは連綿と持続している。気象は存在を越境する。私たちは風の孕む動相の持続を通じて、その連続性の中から「風」だけを切り分ける為の何か明晰な境界を認識するのでは無く、風がそのような境界を越境したと云う事実、即ち敷居経験を認識している。

February 22, 2008

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ハイデガーの「ナトルプ報告」が邦訳されると知り、俄かに興奮する。
『存在と時間』を読むと分かるように、難解な論文である事が予想される。
が、思索の萌芽期にみられるスリリングな躍動を先ずは楽しみたい。

『アリストテレスの現象学的解釈』高田珠樹訳、平凡社。(底本: "Phänomenologische Interpretationen zu Aristoteles (Natorp-Brecht)", hrg. von Günther Neumann, Reclam, 2003.)

February 19, 2008

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 近所の大型中古本量販店にて、おそらく多摩美術大学(八王子校舎)出身者にとっては最早"聖典"とさえ言い得るであろう漫画、沙村広明『おひっこし』を購入する。つまり、やっと買う気になった。
作中の大学は沙村の出身校である多摩美術大学八王子校舎がモチーフとなっており、そして実際にも、かなり正確な描写によってその再現が試みられている。また、大学への最寄り駅である「橋本」駅近辺から野猿街道沿いに「聖蹟桜ヶ丘」までの多摩地区特有の空々しい風景が散見される。そして物語の冒頭から、一般的とは言い難い独特の(美大生らしい)服装を身に纏った人物が多数登場する為に、私たちは増々「これは美術大学を舞台にした物語だろう」と考える。が、102頁左下のコマにある「文学部」のテロップによりその想像は見事に裏切られるのだ。これは、各所に尽くされる"いかにも美術大学臭い雰囲気"の描写が読み手である私たちに醸成する美大生としての親近感を見事に打ち破ってしまう瞬間でもある。(ここで一同、爆笑する)
けれども、この作品を読むに付けて必ずと言ってもいい程に私をしんみりとさせるのは、芸術学科棟とH棟(プレハブの建物)との間から遠くに見える南大沢の風景(54頁中段)だろう。と云うのも私が多摩美術大学に進学した当時は鑓水周辺の都市開発が中断しており、整地された区画が荒れ野となって延々と南大沢の公団住宅群へと続くのを眺めながら、私はその風景に対して密かに「世界の果て」を感じていたからである。この漠とした景色の最中に、あの場所に居た誰もがまるで孤独感にも似た「私」と云う自意識の在る事をひたひたと共有していたのではないか、と思えばそれは随分と感慨深いものでもある。だが、先の2つの建物は今となってはもう跡形も無い。
類似した感銘を私に与える作品として木尾士目『げんしけん』が挙げられる。

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その他に買った本は、島田雅彦『彼岸先生』、筒井康隆『七瀬ふたたび』。(この2冊はどちらも買い直しである)
BankARTにて『REVIEW HOUSE』(創刊号)が先行販売されているようだ。早く読みたい。

February 17, 2008

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 今日は午前中に神田へ行く用事が有ったから、午後は休日の為にシャッターの閉まる神田の古書店街を抜け御茶ノ水を経て湯島天神へと行き、そこから神田神社、秋葉原の電気街をぶらぶらと散歩した後に多摩へと帰宅した。

08.02.17_14:37

Akihabara, Tokyo

08.02.17_14:15

Kanda, Tokyo

08.02.17_13:43

Ochanomizu, Tokyo

February 16, 2008

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 次回の 「11.P.M」(ワタナベエンターテインメント所属の若手芸人11名による定期合同ライブ)で使用される企画映像の撮影の為に先ずは渋谷へと赴く。松谷(パップコーン)が寝坊。さすがに渋谷を行き交う人はカメラ慣れしているのか、芸人との絡みもすんなりこなす。次は巣鴨に移動。以前の企画映像でも撮影を行った為だろう、商店街の方々の反応も中々良い。佐藤(ワンクッション)がいち早くTV効果を発揮する。陽が傾き、気温が下がった為に撮影は一時中断。最後は新橋・SL広場での撮影、序々に陽が落ち夕暮れとなる。酒気帯びたサラリーマンを探すも、まだ時間の早い為に見付からず、コンパの待ち合わせと思われる若い男女に片っ端から声を掛けるのだが「時間が無い」などと理由をつけられ度々断られる。さすがにメンバーの顔にも疲れが見え始めたのでこの日の撮影は早めの終了となった。
 私はその後、五反田へ行き友人達(主に小指値の関係者)の集まるホームパーティに食客として参加。畳敷きの6畳間に十数人がひしめき合いながら酒を呑んだ。Kj君のプリンがとても美味しかった。それから、私は翌日に有る午前中の予定の為に名残惜しくも早々、新宿経由で帰宅路に就いた。

February 13, 2008

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市川崑氏死去。

February 10, 2008

浮遊するマルチプル・ゲンガー

 ——今はみんなで東京のことを考えている。《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》とはロラン・バルトの言葉、フランス人の彼がその本質をあっさり見抜いてしまった東京には皇居があって、私たちはみんなでそのまわりをぐるぐると日々回り続けている。意外にも案外でっかい東京、知らぬ間にバターになった私たち。みんなで空虚に振り回されて、みんなは何を共有しているのだろうか? でも、その何かを共有しているってことだけは相変わらず事実だったりもする。この私がみんなでは無い事実、「私」は私であるけれども、私は「あなた」と確かに繋がっている事実もあって、舞台でが成り立つ為にはそういう「みんな」が必要なのだ。

※ 小指値『霊感少女ヒドミ』当日パンフレット(有料版)掲載文、一部修正有り。

『霊感少女ヒドミ』









小指値『霊感少女ヒドミ』(原作: ハイバイ)、2008年2月、駒場アゴラ劇場。

(Photo: Kazuya Kato)


February 9, 2008

February 8, 2008

08.02.08_21:39

 終演後、そのまま舞台上で行われたパーティで、不意にDちゃんから「プロペラ犬」のお二人を紹介されると云う無茶振りにフリーズする。この時の私はどう仕様も無く惨めで、そして滑稽に振る舞う事しか出来なかった。憧れの女優Mzさんを目の前にして「『七瀬ふたたび』をTVで観たときからファンでした」なんて、当然ながら言えない。そのような度胸の持ち合わせが無かった。



February 6, 2008

小指値『霊感少女ヒドミ』

 今日の関係者向け公開ゲネプロを経てようやく「作品」としてのかたちが見え始めてきた。これから最終日に向け序々に作品が詰まっていくことを想像すると——例え、端から作品の最終形態を提示出来ないことを態度の"甘さ"として批判する人が在ったにしろ、やはり作品が作品足り得る為に常々闘争に晒されそれ自身の形態を変じていくことこそが、舞台芸術に於いては最も生々しく鋭いものであると思うから——次第に、結局はどう仕様も無く興奮してしまうのだ。




February 5, 2008

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駒場東大前駅すぐ近くの古書店にて『孤独な散歩者の夢想』(今野一雄訳、岩波書店、1960年)[=Rousseau, J.-J. "Les Rêveries du promeneur solitaire" 1778/1782.]を買う。

February 4, 2008

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 新番組『Mnemosyne —ムネモシュネの娘たち—』第1話を観る。
 このアニメでは、東京を舞台にグロテスクやエロスが展開されている。
 燐・ミミの口癖「永遠に」や前埜がする自己喪失感の吐露に、いかにも今ふうな刹那感の過剰が見られる。が、それらはフレーズにまで落とし込まれ、あくまで現状を諦観するような視座はやもすればステレオタイプであり、どちらかと云えば'80年代の「無気力・無感動」に近い。
 実を言えば今の若者たちは「無気力・有感動」であり、それ故に感情の構成要素が陳腐であり、けれどもその陳腐さについては充分に自覚している、と云う或る種の"動物的な焦燥感"(落ち着きが無く、忍耐に欠け、純粋で、主観的な価値観を重視し、伝統的な中央集権的組織を形成するのには向いていない——つまりゲリラ組織的である)を備えている。この特徴は確かに、彼(女)らの生産行動が生活に直結し情動労働に向いていると云う点ではマルチチュード的でもあるが、然しながら彼(女)らには主体性の芯が欠けており、1人称(I)が3人称(We)を常に代表する4人称的な性質がある——言うなればそれはレギオン(Legion)に似ている。

〈Then He(Jesus) Asked Him, "What is your name?" And he answered, saying, "My name is Legion; for we are many."〉
---Mark 5-9

February 3, 2008

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 今朝、目を覚ますと音が無くしんとして静かで、「雪が降ったのかしら」などと窓硝子に手を伸ばすとアルミサッシは結露し冷たい。曇り窓の向こうには鈍く、ぼんやりとした明るさが在る。雪を掻く音が聞こえる。この曇りを袖で拭った硝子の外は確かに雪景色だった。
 明日が小屋入りの為に夜は荷積みをするのだが、この雪降りしきる道程は少々難儀だな。