July 17, 2010

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『グッバイ、レーニン!』をまた観ている。私はこの映画の中盤に有るシーン、ヘリコプターに吊るされて輸送されるレーニン像の上半身が主人公の母親の方へゆっくりと近付き、有名なポーズである右手を挙げた、彼の上に掲げられた右手を――宙吊りに遭うことで重心が傾いた為に、下半身から切り離されて真直ぐ立つ事が出来なくなったが為に――彼女へと向かって差し延べているかのように見える、雄々しいレーニン、力強いレーニンが彼女の理想としただろう輝かしい社会主義の東ドイツの方へ向かってゆっくりと手を差し伸べていながらも、そして徐々に遠ざかって行く――あろう事か、後ろ向きに!――このシーンに大変な感銘を抱いている。
私がまだ大学院生だった頃に、或る読書会で、白井氏が強調したレーニンが唱える「力」というものを、ただ熱心に、だが私はそのときもまだ充分に彼が強調する「力」という概念を理解する事が無かったのだが、とは云え大変魅力的に響いたこの「力」のことを、私はまだ何ともなしに信じているようなところがあって、例えばドイツロマン派の諸作品やシェリングの哲学、Benjamin, W. の亡命、南方の粘菌、折口の言語情調論、オッペンハイマーの "Death am I, and my present task Destruction.(我は死なり、世界の破壊者なり)"、輝かしい光 Bright than a Thouthand Suns. ――上に挙げた映画の終わりに、主人公が彼のその病床に臥せった母親に自作の捏造ビデオを(TV放送と偽って)観せて、輝かしい、理想の社会主義世界、空想の架空の東ドイツを中心としたドイツ統一の様子に母親を感動させるとき、彼が何度も母親の方へ振り返って自信や確信に満ちた表情をするときに表れた「力」、それら様々な力は蒙昧を伴ってときに人間の人格に備わった尊厳で有るかのように振舞うが、これは先ず人間にとってはどう仕様もない「力」であり、最初から繰り返されるようにして現れた「力」である。これは機械のようであり、この「力」を扱う者は工夫(こうふ)に似ている。