Amazonにて注文していた、
『西田幾多郎全集 第四巻 働くものから見るものへ』(岩波書店1965年)、
『西田幾多郎全集 第九巻 哲學論文集 第三』(岩波書店1965年)、
土門拳『土門拳全集1 古寺巡礼1 大和篇 上』(小学館、09/1983)、
これらを受け取った。
六本木でMtbさんと待ち合わせて、先日は観ることができなかった
秋山佑太+布施琳太郎「モデルルーム」展(於: SNOW Contemporary)を観た。
会場では作家二人と色々話すことができた。
そのときの覚書を、以下に簡単に記す。
1. 先ず「モデルルーム」というテーマがあり
2. 次にA.秋山+布施の展示空間 B.それ以外の作家も交えたコラボ的空間 の二層が構想され、
3. その二層を区切るための壁が要請される
2-A. は、仮に内的、プライベート。対して2-B.は外的、パブリックとおく。
前者は人工光の、後者は自然光の空間として設定される。
ここで見るべきは C.玄関からの透けた通路であり、秋山のブルーシートの筒、内装工事の映像の作品が配置されている。ここに布施作品はない。
(モデルルーム="家の2層構造"と聞いて、どうにもドゥルーズ『襞』の「バロックハウス」を想起してしまう)
A.とB.を二分する為に"壁を立てる"という要請からA.がギャラリー空間の内装を大きく操作したものとして発展し、A.の外部がB.となっている。
はじめに、導線区分についてみると、A.とB.を隔てるものは透明のドアということになるが、C.玄関が導入されているようにも見える。
つぎに、展示照明について着目すれば、A.の人口光に対してB.、C.の自然光となる。
先ずはC.玄関があり、段差を跨いでA.(室内)へ。ドアから犬走り(自然光の廊下)を経てB.庭へ、という構造に見える。
ここから、元のギャラリー空間は壁によって二分されたというよりも"見掛け上"は、B.庭(外部)に対するA.室内(内部)の「入れ子状」の構造に見える。
D.廊下は「犬走り」としてやや独立性があるように見える。
敷居経験からは、C.玄関←A.室内は「跨ぐ」、C.→(D.→)B.庭は「透けたドア」を経る、となる。
が、空間経験としては内部的に見えるA.の方が「空間が大きく操作されているもの(より造作の手の入っているもの)」として主であるように見えるのでB.よりも優勢だろう。
2-A-秋山. は「インフラ」から、2-A-布施. は引き籠りの「布団の中」から(ゆえにベッドとテレビ)それぞれ対方向から「モデルルーム」の構築を図っている。
2-A-布施. は、見慣れたガジェットぽさ(雑な印象で)がなく、絵画作品のあることにどうもこれまでの展示との関連性を観て構築しにくい。
絵という唐突さから「布施くん意外と絵が描けるんだ」と感想してしまう。が、制作プロセスを"作家から直接聞き出す"と、「ああ、布施くんぽい理論」と納得できる。
(2-A-布施.の女性肖像は、
1. SNS上に自撮り画像をアップしていた女性らに
2. 布施がSNS経由で交渉して獲得したイメージを
3.スプレーで模写(描画?)する、というプロセス。
"インターネットからのイメージの獲得"という点ではこれまでの文脈として分かるという感じがする。
が、そのプロセスは作家から聞かないと分からない(ステートメントでフォローアップされている訳でもない)し、
その点に接続できないとあれは割と絵だし描画という物質的行為の方が、あの場では先立って見えてしまうから分からない、となるかな)
とはいえ「何で"モデルルーム"?」という点については、その取り組みの熱量は分かるが、動機としては腑に落ちない、
別に作品に対してはどうでもよいのだけれども、展示企画として観てしまった場合のテーマ/コンセプト構築の整理から観た"要請"からくる不満はあるだろうな、も分かりはする。
で、僕は2-B. の秋山くんの彫刻の小作品は結構気に入った。自然光で上手く写真撮れた。
エイトへ移動して、そこでしばらく酒を呑んだ。
天王洲アイル、TERRADA Art Complexへ行き、高橋大輔「眠る絵画」展(於: urano)を観た。
初日だったので会場には高橋くんがいて、それで作品のことを色々と話した。
高橋くんといえばかなり厚塗りの絵を各印象が定着しているが、
今回展示されていたものは薄塗りも混在して、これはでとは印象が異なる絵だった。よい絵だった。
それからMtbさんと五反田へ移動して安呑み屋でまた酒を呑んだ。