November 15, 2006

下手な考え

日に5冊も本を読むと——それは新たに読み始めた本では無くて、専ら"読み直し"である為だ——、如何せん頭も朦朧としてくるし、口も余り饒舌には機能し無くなる。そしてこのような入力過多の、呆とした、頭痛の——或いは、「頭でっかち」の——殆ど"ものを考える"には大凡適切では無い程に茫漠とした状態こそが、思索をするのにとても善い状態だと言える。例えば「休息」を必要としているような、もう何も考えたくは無い穏やかで"空っぽ"の時間には——換言すれば、ぷつぷつと脳細胞が音を立てながら徐々に思索の見通しが鮮やかに切り通されて開けていく時間に在っては——、詰まるところ常にこのような感じを持つだろう。そしてこれは、紛れも無い「読み直し」の効果に他ならない。

この「読み直し」の読書は、セーターの毛糸をほどく作業に似ている。ここでの私たちの目的とは、この目の前に在るセーターを一本の毛糸へと還元する事に在る。さて、どうしようか?と、取り敢えず当てずっぽうにでも然し一つの直観には頼りながら、「えいや!」と毛糸をほどいてみる。ところが最初から上手くはいかない。すると今度は別の箇所から、また再び毛糸をほどきに掛かる。次々に。そのようにしてセーターは、いつの間にやらもこもことした毛糸の塊の結び目のような、曖昧なかたちを持つようになる——言うなれば、概念が度重なる咀嚼の為に滲み出す唾液によって、「ふやけた」状態。と、このような状態にまで至るなら、もうどこを引っ張ろうとも、あちこちで結び目が新たに生まれるだけで、やはり一向に事態は進展の兆しを見せないだろう。

これでは全き「ゴルディアスの結び目」である。が、ここではアレクサンダーの勇敢な身振りも余り要求されはしない。と云うのも、思索に在っては、常に丁寧で慎重な態度が要求されるからだ。そして、私たちの兼ねてからの目的とは、依然として「目の前に在るセーターを一本の毛糸へと還元する事」に在る。

このような場合に在っては、少しだけ落ち着いて、先ずはその両端から取り掛かってみると——それは緩慢で悠長な仕方では在るけれども——やはり少しずつその結び目がほつれていく、それが一つの堅実な仕方であるようには思える。そうやって其処此処の結び目を徐々に緩めながらも、少しずつでは在るが真っ直ぐに延びる明晰な箇所が増えていく。最後まで頑に残り続ける結び目は、このようにして明晰な箇所が増えるにつれて、後は一つ一つ落ち着いて取り掛かれば善いと云うような具合になる。と、これは確かに確実では在るが、然しながら非常に時間の掛かる仕方でもある。故に私たちは、このような作業に取り掛かる前に、先ずはセーターの編み目を暫しの間ぢっくりと観察して、後に続く然るべき作業に対する充分な見通しを準備しておく必要が在る。(とは云えこの時点に於ける考え過ぎも、やはり一向に実践には結び付かない)

けだしそこにも直観は、運善くとも奇跡的ともまるで言い方に困るような感じで係っていて、セーターの端を持ち上げたら忽ちに一本の毛糸になってしまうような、そう云う呆気の無い類いの明敏さを確かに備えている。