November 22, 2006

Eureka!("Love Letter")

私は彼女(便宜上、そう呼んでおく)の前を行ったり来たりしていたから、私には彼女の確かに在る事がもうすっかり分かっていたのだけれど、いつも寸でのところで彼女の腕を掴み損ねていた。が、私はとうとう彼女を抱きしめて彼女との熱い抱擁を交わす事が出来た。この充実感!

文章を書くにあたって、そのものごとを当たり前の事として、落ち着いて書き得ると云うのは案外骨の折れるものである。と云うのも、そこには確かに今しがた書き終えたばかりの私の文章の宛先としての読者が確固タルものであるような明晰さを伴って在る、と云う必要があるからだ。(そして勿論、その読者は確かに在れば善いのであって、彼或いは彼女の目鼻顔立ちが明確である、と云うような必要は特に無い。)

ところで、私がそのような「概念的人物」としての彼女との抱擁を交わす事が出来たのは、私の思索に於いて生じた概念に対する或る程度納得のいくようなデッサンが出来上がり、つまりその概念(モチーフ)についての見通しが明らかに開けた為であるが、そしてここにも付け加えておかねばならないのは、彼女との抱擁に際して、さらに私の彼女に接吻をする必要は全く無いのだ、と云うことである。何故なら彼女は確かに在るけれども、然しながら彼女は人格を伴うような顔立ちを持たないからだ。

言うなれば文章とは、彼か彼女か分からぬが兎角人に向かって書けば善い、と云う事になる。そして彼或いは彼女が私の文章の読者である為には今まさしく世界に生きている彼或いは彼女ではなくとも、今後生まれ得るが為に確かに在ると云うような彼或いは彼女に向けて私は書くのだ、とも言えなくは無いように思われるのだ。

そして私は今しがた、私の書き得る文章がそのような読者に向かって書き得ると云うような確信に合致した事が確かに分かったのだ。私が腕を掴まえて抱擁した概念がまさに「彼女」であった、と云うような性格付けによって私がその概念に対する幾らかの親近感を覚えたと云う事は、私がその概念に関して私は確かにそれを文章に於いて書き得ると実感するに至る為には少なからず必要だった、と、なるほどそのように言う事は出来そうである。