October 29, 2009

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日吉に在る中古本屋にて、
『唐詩三百首』(上海古籍出版社、1999年)、
を購入した。
日吉から元住吉へ向かう途中に在る中古本屋にて、
細野不二彦『ギャラリーフェイク』(Bd. 15, 16, 31)、
を購入した。
元住吉に在る書店にて、
石黒正数『それでも町は廻っている』(Bd. 6)、
を購入した。
幸楽苑で中華そば大盛りを食べた。
近所に住むTmzさんが遊びに(漫画を読みに)来た。

October 28, 2009

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元住吉に在る中古本屋にて、
手塚治虫『ブッダ』(Bd. 1-3)[単行本、ハードカバー]、
を購入した。

October 27, 2009

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健康診断の結果が思わしくなく、心臓に疾患の有るようなので、精密検査を受ける為に近所の総合病院へと向かった。
一旦、家の前の坂を下り、右に折れて今度は坂を登る。この上り坂はどうにも古臭く埃を被ったような雰囲気が有って、中々気に入っている。家々が山の斜面に潜り込むように、その脇に至るところ細い雑多な造りの階段が分け入って伸びているのが面白い。
目指す病院は風通しの良い高台に在る。何でも、昔は結核の治療所だったようだ、というのは喫煙所で煙草を飲みながら職場の人より聞き知った話。
古めかしい総合病院と云うものは——きっと誰もが口にするに違いない、まるでカフカの「城」なのだ、と。
病院の内部はとにかく煩雑な感じがする。あちこちに何かを案内する為の表示があるが、それが為により一層、謎めいた・独特の文化を現しているようにも感じられる。
(渋谷のNHKが丁度似た印象を抱かせる)
そう、もうここは世知とは異なる法律を持った、別の国家なのである。
あちらこちら、そんな何かに向かって待機しているような住人たちを見続けていると、私のあちこちまでが序々に病に蝕まれていくように思える。おそらく「自分こそ健康なのだ」と云うような信念を抱く人間ほどこのような他人の不健康に対して一層嫌悪を感じるだろう。
さて、受付から初診の診察室へ、担当医の女性が色白の柔肌で一重瞼、顔や手にほくろの多いのが大変に可愛らしかった。
私が彼女にあちこち念入りに弄られた後、レントゲン撮影、心電図検査を経て再び診察室へ戻る。と、今度は威厳に溢れる年配の男性医が出迎えてくれた。
ライトボックスには私を写したレントゲン写真、「きみの心臓はかたちがおかしいね」、この男性医は言う。
(心電図検査室に居た、地黒で二重瞼の、眼鏡を掛けた看護士の女性も可愛らしかったような気がする、などと思い返していた)
先ほどの愛らしい女性医は、まるで教師に付き従う生徒のかように、恭しく彼の男性医の隣で控え目にしている。
「ほら」と彼が言うので、私がこのレントゲン写真を見遣ると、「確かに私の心臓のかたちは奇妙で、変形しているのだ」。
左心房のあたりが肥大している影が分かる。
正常と云われる心臓、人体解剖図で目にするような心臓のかたちは下膨れの球体形であるが、私の心臓は傾げた楕円球のようなかたちをしている。
だがまあ、こんなひしゃげた心臓になっても、私はなんとかこの身体と折り合いを付けていくものさ、とも考えた。
つまり目の前のレントゲン写真が示している事実を私は余り気に留めなかった。
とは云え面と向かって「医者」と呼ばれる人間に、自分の心臓を散々に"変"呼ばわりされ続けると、何ともなしに、遂には自信が無くなってしまうものである。
依って精密検査とやらはまだ続くことになった。来週のCTとエコーの予約をしてから、尿検査と採血へ——あの忌まわしい苦痛、採血!
会計を済ませる為に財布を手にしながら、病院のレジスターの前でもう、私はすっかりうんざりな気分になっていた。
また件の古めかしい坂を下りながら、かすかに心臓のあたりが滞るような、胸の上っ面のあたりに鈍痛を覚えて「ああ、すっかり騙されたな」とも考えた。家の前の再び上り坂では、歩きながら更に息苦しい感じがしたのだ。

October 26, 2009

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日吉駅に在る書店にて、
いくえみ綾『潔く柔く』(Bd. 11)、
を購入した。

October 25, 2009

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この日は上野へ行き、『聖地チベット——ポタラ宮と天空の至宝』展(上野の森美術館)を観る。
企画展図録『聖地チベット——ポタラ宮と天空の至宝』、
『チベットの宗教舞踊——ツェチュのチャム』[DVD, Hi8, Color, 96min.]、
を購入した。
美術館へ向かう途中、上野駅前の古書店に立ち寄り、
大江健三郎『ピンチランナー調書』(新潮社、1976年)、
『フリードリッヒとその周辺』(日本経済新聞社、1978年)[図録:東京国立近代美術館]、
を購入した。

October 24, 2009

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元住吉の線路沿いに在る中古本屋にて、
藤子不二雄『超兵器ガ壱號』(1982年)、
を購入した。

October 21, 2009

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元住吉に在る中古本屋にて、
手塚治虫『ブッダ』(Bd. 4-7)[単行本、ソフトカバー]、
を購入した。

October 19, 2009

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日吉に在る中古本屋にて、
井上武彦『バガボンド』(Bd. 23)、
小林源文『炎の騎士』、
同『タイム・トルーパー』、
同『鋼鉄の死神』、
を購入する。
それから、職場からの帰りしな元住吉の中古本屋にて、
細野不二彦『ギャラリーフェイク』(Bd. 22, 27-30)、
田川水泡『のらくろ總攻撃』(講談社、1969年)[復刻版。原本は1937年]、
を購入した。

October 18, 2009

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元住吉に在る中古本屋にて、
井上武彦『バガボンド』(Bd. 24-26)、
村松一人・竹内実訳『実践論・矛盾論』(岩波書店、1957年)[=毛沢東 "実践論", "矛盾論" 1937.]、
The Smith "The World Won't Listen" 1986.、
を購入した。

October 17, 2009

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昼過ぎに目覚め、元住吉の幸楽苑でラーメンセットを食べ綱島の中古本屋へ行き、
井上武彦『バガボンド』(Bd. 17-22, 30, 31)、
細野不二彦『ギャラリーフェイク』(Bd. 18-21, 23, 24)、
を購入した。
それから元住吉の中古本屋にて、
成大林『中国长城』(北京体育大学出版社、1994年)、
を購入した。
書斎に手持ちの40W蛍光灯を一本吊ったら、随分と居心地の良い明かりとなった。
気に入りの東芝製色評価用、Ra99の白色光と中華提灯の赤色とが馴染んで、淡い立体感が現われてくる。

October 16, 2009

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日吉に在る中古本屋にて、
井上武彦『バガボンド』(Bd. 28, 29)
なにわ小吉『王様はロバ 〜はったり帝国の逆襲〜』(Bd. 2)、
を購入した。

October 15, 2009

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日吉に在る書店にて、
『軍事研究』(No. 524, Nov., 2009.)、
を購入した。

October 12, 2009

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元住吉に在る中古本屋にて、
井上義一訳『青い犬の目』(福武書店、1990年)[=Ma´rquez, G. "Ojos de perro azul" 1972. ほか]、
を購入した。

October 10, 2009

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今日は健康診断の為、昼過ぎに横浜へ行った。
尿検査でなかなか小便が出ず、苦心した。
採決の際に——私の血管は細いらしい——皮膚の下で腕に差込まれた採血針が血管を探って何度も抜き差しされるのをずっと見ていたら、動揺して気分が悪くなった。自分の皮膚の下に何が在るのかを直接見たことはまだ無い。痛覚は不随意の刺激である。血管を弄ぐる針の動きと断続的に鋭くなるその為の痛みとが、目で見ている限り滅多に噛み合うことがない。自分の肉体というものが奇妙に見える。
元住吉にある中古本屋にて、
井上武彦『バガボンド』(Bd. 1-6, 16)、
を購入した。

このところ面白いと思うものが新たに世に出てくることがない。
これは私が飽きっぽいからなのか、或いは世の中の面白いものが消え去ったのか。(又は、私の感度が鈍くなったのか。或いは私の感性が肥えたのか……)
私はここ暫く銀座にはそっぽを向いている。大したものが現れる匂いが無いし、暫くのあいだ立ち寄らなかったところで何も起こらないという確信があるから、見逃すものは何も無いと云う訳だ。(今や"現代美術"を扱うgalleryは至る場所に在るし、それらのどれも内容が似たり寄ったりで何の価値もない)
TVを見る習慣は無くなったし、radioを聞くことも減った。WSJとNTには相変わらず目を通すけれども、Google Newsと変わることが特に有る訳でも無く。世の中の流れは、表層では随分とあくせく流れているようでいて、実際には緩慢に何事も無く硬直している。と云うことに気が付くや、この引き攣れが笑いになる。噴飯ものの爆笑である。実に「何か変わった」と云う感じがするだけで、そんなものは錯誤だ。時間が経っていたに過ぎない。
気晴らしに古典と呼ばれているようなものを読み、聴き、観て、さて果たしてこれらを超える面白いものが、私の生きているあいだ新たに生み出されることがあるのだろうか、と。その結果は訝しいのではないか? 最新のものが最良であったことは無く、また最善であった時代も今や昔のことなのだ。知識だけ増え続けて教養の満たされないのが昨今の世代である。(私は増々過去の力に縋り付いてゆく)
創造力の有る人間なんて、もうとっくに誰かが喰い潰しているんじゃないかと、この頃そう思う。
(誰かが、新たな創造力を片っ端から食い潰しているんじゃないかと思う。その「誰か」というのは、多分「We」なのだ)

私が大学生の時にはいつもそのような調子だった。唯、森の中を歩いているだけで快楽だった。


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"See more glass, Mama!"(ママ、もっと鏡を見て!)
このところ面白いと思うものが新たに世に出てくることがない。
これは私が飽きっぽいからなのか、或いは世の中の面白いものが消え去ったのか。(又は、私の感度が鈍くなったか。或いは私の感性が肥えたのか……)
TVを見る習慣は無くなったし、radioを聞くことも減った。WSJとNTには相変わらず目を通すけれども、Google Newsと変わることが特に有る訳でも無く。世の中の流れは、表層では随分とあくせく流れているようでいて、実際には緩慢に何事も無く硬直している。と云うことに気が付くや、この引き攣れに誰もが笑う。噴飯ものの爆笑である。実に「何か変わった」と云う感じがするだけで、そんなものは錯誤だ。時間が経っていたに過ぎない。
気晴らしに古典と呼ばれているようなものを読み、聴き、観て、さて果たしてこれらを超える面白いものが、私の生きているあいだ新たに生み出されることがあるのだろうか、と。その結果は訝しいのではないか? 最新のものが最良であったことは無く、また最善であった時代も今や昔のことなのだ。知識だけ増え続けて教養の満たされないのが昨今の世代である。創造力の有る人間なんて、もうとっくに誰かが喰い潰しているんじゃないかと、近頃では思う。この「誰か」というのは、多分"We"なのだ。
("I"や"Me"は消滅してしまいました。"We"だけが残りました。ほかに名指すべき人称がもう有りません)

「今やすべてが輝かしい光の浸透するままになり、そしてわたしは無限の喜びにひたりながら、すべては現にあるのだ、すべてのものは現にあるのだと意識すると、とたんにもうそれ以外のことは考えられなくなってしまった。が、それと同時に、すべてのものはこれまでもあったのだが、それは今までとちがって、まったくちがって、恩寵の光に照らされ、繊細で壊れやすいものだったことも意識したのである。」
[Ionesco, E. "Journal en miettes" 1967.]

私が大学生の時には万事このような調子だった。唯、森の中を歩いているだけで快楽だった。誰もがこの「強い光」を多感な時代に体験する。何らの不思議も無い、今思えば——幾らか宗教的な体験だった、と云うだけのことである。ところで今の私には、このような快楽も、光に溢れた世界も、すっかり消え失せてしまった。意識が過去に向かう限り興奮する、というばかりだ。これから起こることも、また起こりつつあることも、全ては"繰り返されるようにして"現れる。私は「存在」と云うものに慣れきってしまって、老いの実感にも無頓着である。自分の今際を夢に見ても何も思わない。だが、あの「強い光」は幻で、感じ易い青年期特有の昂りなのか、と云うとそうでは無いと思う。それは霊感であり、既に経験としては分かりきっている。単にそれだけのことである。経験の鈍い人々だけが多くの感覚とともにこれを忘れ去ってしまうに過ぎない。

October 7, 2009

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元住吉にある中古本屋にて、
井上武彦『バガボンド』(Bd. 7-15)、
を購入した。

October 4, 2009

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元住吉にある中古本屋にて、
鳥山明『鳥山明○作劇場 Vol. 1』、
同『鳥山明○作劇場 Vol. 2』、
正岡子規『筆まかせ抄』(栗津則雄編、岩波書店、1985年)、
を購入した。
拾った椅子を補修した。

October 3, 2009

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自由が丘にある中古本屋にて、
手塚治虫『三つ目がとおる』(Bd. 2)、
細野不二彦『ギャラリーフェイク』(Bd. 13)、
を購入した。

October 2, 2009

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日吉にある書店にて、
幸村誠『ヴィンランド・サガ』(Bd. 8)
沙村広明『シスタージェネレーター 沙村広明短編集』、
を購入した。

October 1, 2009

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職場からの帰り道に籐の安楽椅子を拾った。
日吉のコンヴィニーで
若杉公徳『デトロイト・メタル・シティー』(Bd. 8)、
を購入した。