October 10, 2009

untitled

今日は健康診断の為、昼過ぎに横浜へ行った。
尿検査でなかなか小便が出ず、苦心した。
採決の際に——私の血管は細いらしい——皮膚の下で腕に差込まれた採血針が血管を探って何度も抜き差しされるのをずっと見ていたら、動揺して気分が悪くなった。自分の皮膚の下に何が在るのかを直接見たことはまだ無い。痛覚は不随意の刺激である。血管を弄ぐる針の動きと断続的に鋭くなるその為の痛みとが、目で見ている限り滅多に噛み合うことがない。自分の肉体というものが奇妙に見える。
元住吉にある中古本屋にて、
井上武彦『バガボンド』(Bd. 1-6, 16)、
を購入した。

このところ面白いと思うものが新たに世に出てくることがない。
これは私が飽きっぽいからなのか、或いは世の中の面白いものが消え去ったのか。(又は、私の感度が鈍くなったのか。或いは私の感性が肥えたのか……)
私はここ暫く銀座にはそっぽを向いている。大したものが現れる匂いが無いし、暫くのあいだ立ち寄らなかったところで何も起こらないという確信があるから、見逃すものは何も無いと云う訳だ。(今や"現代美術"を扱うgalleryは至る場所に在るし、それらのどれも内容が似たり寄ったりで何の価値もない)
TVを見る習慣は無くなったし、radioを聞くことも減った。WSJとNTには相変わらず目を通すけれども、Google Newsと変わることが特に有る訳でも無く。世の中の流れは、表層では随分とあくせく流れているようでいて、実際には緩慢に何事も無く硬直している。と云うことに気が付くや、この引き攣れが笑いになる。噴飯ものの爆笑である。実に「何か変わった」と云う感じがするだけで、そんなものは錯誤だ。時間が経っていたに過ぎない。
気晴らしに古典と呼ばれているようなものを読み、聴き、観て、さて果たしてこれらを超える面白いものが、私の生きているあいだ新たに生み出されることがあるのだろうか、と。その結果は訝しいのではないか? 最新のものが最良であったことは無く、また最善であった時代も今や昔のことなのだ。知識だけ増え続けて教養の満たされないのが昨今の世代である。(私は増々過去の力に縋り付いてゆく)
創造力の有る人間なんて、もうとっくに誰かが喰い潰しているんじゃないかと、この頃そう思う。
(誰かが、新たな創造力を片っ端から食い潰しているんじゃないかと思う。その「誰か」というのは、多分「We」なのだ)

私が大学生の時にはいつもそのような調子だった。唯、森の中を歩いているだけで快楽だった。


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"See more glass, Mama!"(ママ、もっと鏡を見て!)
このところ面白いと思うものが新たに世に出てくることがない。
これは私が飽きっぽいからなのか、或いは世の中の面白いものが消え去ったのか。(又は、私の感度が鈍くなったか。或いは私の感性が肥えたのか……)
TVを見る習慣は無くなったし、radioを聞くことも減った。WSJとNTには相変わらず目を通すけれども、Google Newsと変わることが特に有る訳でも無く。世の中の流れは、表層では随分とあくせく流れているようでいて、実際には緩慢に何事も無く硬直している。と云うことに気が付くや、この引き攣れに誰もが笑う。噴飯ものの爆笑である。実に「何か変わった」と云う感じがするだけで、そんなものは錯誤だ。時間が経っていたに過ぎない。
気晴らしに古典と呼ばれているようなものを読み、聴き、観て、さて果たしてこれらを超える面白いものが、私の生きているあいだ新たに生み出されることがあるのだろうか、と。その結果は訝しいのではないか? 最新のものが最良であったことは無く、また最善であった時代も今や昔のことなのだ。知識だけ増え続けて教養の満たされないのが昨今の世代である。創造力の有る人間なんて、もうとっくに誰かが喰い潰しているんじゃないかと、近頃では思う。この「誰か」というのは、多分"We"なのだ。
("I"や"Me"は消滅してしまいました。"We"だけが残りました。ほかに名指すべき人称がもう有りません)

「今やすべてが輝かしい光の浸透するままになり、そしてわたしは無限の喜びにひたりながら、すべては現にあるのだ、すべてのものは現にあるのだと意識すると、とたんにもうそれ以外のことは考えられなくなってしまった。が、それと同時に、すべてのものはこれまでもあったのだが、それは今までとちがって、まったくちがって、恩寵の光に照らされ、繊細で壊れやすいものだったことも意識したのである。」
[Ionesco, E. "Journal en miettes" 1967.]

私が大学生の時には万事このような調子だった。唯、森の中を歩いているだけで快楽だった。誰もがこの「強い光」を多感な時代に体験する。何らの不思議も無い、今思えば——幾らか宗教的な体験だった、と云うだけのことである。ところで今の私には、このような快楽も、光に溢れた世界も、すっかり消え失せてしまった。意識が過去に向かう限り興奮する、というばかりだ。これから起こることも、また起こりつつあることも、全ては"繰り返されるようにして"現れる。私は「存在」と云うものに慣れきってしまって、老いの実感にも無頓着である。自分の今際を夢に見ても何も思わない。だが、あの「強い光」は幻で、感じ易い青年期特有の昂りなのか、と云うとそうでは無いと思う。それは霊感であり、既に経験としては分かりきっている。単にそれだけのことである。経験の鈍い人々だけが多くの感覚とともにこれを忘れ去ってしまうに過ぎない。