January 9, 2010

untitled

昼過ぎに大手町へ行き、江戸城跡を散歩しようと思ったのだが、着いたときには閉園時間を過ぎていた。
それで、馴染みの経路——竹橋から九段、市ヶ谷へ——を歩いた。
皇居のぐるりをランナーたちが走っていて、——これが近頃の流行りらしい、と感じたのだが——誰もが厚手のタイツのような、ナイロン地のレギンスと言われるものだろうか、ぴったりと脚のシルエットを晒し出すようなものを穿いていた。
彼(女)らの恰好は、然し一向にやる気があるけれど、内股に頼り無いストロークで、その外観的な勢いの割には前へと進める気配が無い。
と、ファッショナブルな彼(女)らの脇を、颯爽、手練れのランナーが駆け抜けていく。
それが為にまるで己れが脚線美を誇ろうと云うのか、中世染みたタイツの装いを、半ば倒錯的な印象を以て彼(女)らの心意気が私にノスタルジーと薄暗い嘲笑の気分を与えた。
それから総武線で新宿へ、淳久堂へと向かう。
上村忠男訳『言葉の死 否定性の場所に関するゼミナール』(筑摩書房、2009年)[=Agamben, G. "Il linguaggio e la morte. Un seminario sul luogo della negatività" Terza edizione accrescuta: Torino, Giulio Einaudi editore, 1989. Prima edizione, 1982.]、
高橋和巳訳『思考の潜勢力 論文と講演』(月曜社、2009年)[=Agamben, G. "La potenza del pensiero; Saggi e conferenze" Vicenza: Neri Pozza, 2005.]、
を購入した。
書店で『思考の潜勢力』を少し立ち読みして、Stimmung に関する項目に強く惹かれた。

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"J'avais vingt ans. Je ne laisserai personne direque c'est le plus bel âge delavie."
「私は20歳だった。これが人生の最良の時だとは誰にも言わせない」1931

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「ぴちっときまって、エレガント! ぴちっときまって、エレガント!」

年の瀬の余暇を利用して、生家の客間に俯せて寝そべり大江『水死』を読み終えた。
終始に渡り作品の構造が一貫しているので、難解な事は無く、寧ろ読み易いものとして私には楽しめた。
この作品に通底するものは書き手に因る作品内に於ける「釈明」であると、私は考える。
言うなれば書き手の「執筆(作品を産出する)」と云う行為の空け開きであるが——例えばチェルフィッチュのする劇中に於ける自己言及性の明示、演じに先行する台本を劇中に於いて支持し続ける事で、劇作と云う行為を露わにするのにもそれは似ている。
乱暴に約めてしまうと、チェルフィッチュがノン・フィクション(演じ)をフィクション(演技)として行為するのに対して、大江はフィクション(物語)をノン・フィクション(執筆)として行為する。換言すれば、作品に於いて前者が「これも演劇なんですよ」と開き直る事で観者に作品を俯瞰させる(退かせる)のに対して、後者は「でも書かなければならないんですよ」と観者を再び作品へと連れ戻す、と云う意味合いでこれは「釈明」なのだ。
『水死』の物語は、当初、主人公の長江古義人(直裁に大江本人を想起させる)が"晩年の仕事(レイト・ワーク)"である「水死小説」を断念し、自身が「大眩暈」に襲われて第二部が始まる。だが、それまでの第一部は繰り延べであり、実に「失敗」から始まる第二部こそが第一部であるかのように見える。となればこの第一部とは作品全体に掛かるト書きの役割を果たす。
そして第三部では主人公から見れば他者であるウナイコの「死んだ犬を投げる」芝居が頓挫する。ここで、作中に於いては二度失敗が提示されることになるのだけれど、読み手にとって二度目の失敗は最初の失敗を追憶するようにして経験される。(だが、時間経験としては前方に向かって反復される。詰まり、第一部と第二部との間には本の綴じ目のような折り返しがあるのだ)
この物語に敢えて主題を与えるとすれば、自然と大黄に焦点が定まる訳だが、では何故「水死小説」が頓挫してからでなければ大黄は登場出来なかったのか、何故「死んだ犬を投げる」芝居の頓挫と共に大黄は死なねばならなかったのか(然しながら正確には、大黄の死は暗示されるに過ぎない)を考えるならば、この理解には妥当性が生じる。簡単に言えば、この作品は"0+2"の構造、「三歩進んで二歩下がる」構造がある。
そして作中に登場するこれら二つの作品は、どちらも失敗によって明示され完結する——まるで実現しなかった事に依って初めて完成するかのように。さらに言えば、作中の作品それ自体は具体的に実現される事が無く、物語の主題は宙を向いている。詰まり、作品が入れ子になっている訳では無く、『水死』が作中の作品を明示する事に因って「釈明」の構造が作品(『水死』)からメタ構造化してしまう事を止揚している、と云う点で上述したチェルフィッチュの方法よりも上手く作品の宙吊りを実現している。
個人的には(批判的な含みを持たせて)劇作に関わる人間が読むべき作品であるように思う。何故なら、作中に於いて古義人が常にウナイコの仕事に対して傍観的である態度に、私も同調するからだ。

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僕は二人が同じ場面に登場する度に、ホールデンとフィービーがヤッちまうシーンを想像して、オナニーしちまう。
でも別に、僕が妹とヤリたい欲求抱えてる訳ぢゃ無い。
妹とヤルなんて、マトモな精神なら思い立つもんぢゃ無い。
ただそういうこと思い付いてしまうってだけで、ホンキで「そうなればいいな」なんて考えるハズがない。
単に"思い付き"って、多分こういうことだろう?
偶然に。思い掛けず、というかまるで「災難」みたいなもんだろう。思わず「ヤッちまった!」って後悔だな、ホント。
僕はオナニーがしたいだけで、ぶっちゃけ理由なんて何でもいい。
何でもいいから、思い付いたものに「ぱっ」と飛びついた方が、そりゃ自然ってものでしょ。

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僕は、言ってみれば"マネキンみたいな女"が好きなんだ。街に陳列されてる、「いかにも流行りの…」って感じの、あの不快にならないってことが好印象ってだけの、だから「どこにでも居るような、可愛いあの子」って感じ。そういう感じが僕の好みあんだね。
で、そういう女って、いつの間にか結婚しちゃったりなんかして、子どもまでいたりする。だから僕にはホント関係無い女ね。家畜みたいに多産で、欲深く、ぬくぬくとしているような、そんな路傍の石ころみたいに通りすがりの女に、正直なところ、僕はホント、まいっちゃうんだよね。

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闊歩するマネキン女と俯いて突進してくるケータイ狂いの歩行者。