December 2, 2012

快快『Y時のはなし』×アーティスト・イン・児童館(@光が丘区民センター)について

光が丘区民センターにて、快快『Y時のはなし』×アーティスト・イン・児童館を観た。
以下、雑感を記載。後にまとめる予定。

『Y時のはなし』については、小指値時代の『R時のはなし』(@STスポット、2007年)をDVDで、2010年のVACANT公演、と2度見ている。
今回の公演は、これまでの『Y時』にワークショップ(以下、"WS")参加者のパートが付け加わったものとなっている。

一般的な観劇環境を観客と舞台とが切り離されたものとするなら、今回は演者も観者として客席に、ときには舞台上にと居場所が入れ替わるので、当然"通常"の環境とは異なる騒々しさ雑多さの中で多くの観者は鑑賞する事になる。
ここには演者とその身内と云うような「関係者」と、それ以外の言わば「"通常"の観者」とで鑑賞の質が異なる、と云う簡易な弁別が、今回の場合に於いては果たして有効に駆動するだろうか? と云う疑問は生じる。この弁別は弱いのではないか?
「子ども」と云う不確定要素、『SHIBAHAMA』で観客を舞台上へ上げるよりも更に生じるであろう不確定要素は、予想したよりも抑えられていたように感じた。プログラムとしてはWSの成果発表と云う、それこそ身内的な達成点が予感されながら、然し今回は十分に作品としての質が備わっていた。
そこで改めて、先に挙げた「通常の鑑賞環境」や「通常の観者」と云うような、演劇の状況として想定されがちな理想的なものの価値は、作品の質に対して何であるか疑問が湧いた。それらは当然の価値を持っているようでいて尚々切り崩しの対象として有効だと云う予感がした。