October 13, 2014

悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』@KAATについて

横浜、山下町に在るKAATにて、悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』を観た。

(以下、編集中)
観ることができてよかった。面白かった。いつもの作品に比べて余りにも分かり易過ぎる、という批判もできる。作品の根底にはいつも通り演じられなさの提案がある、が、パッケージとしてこれまでの手つきの集大成という感じがする良作。
内容はかなり観易くて、途中客席から笑いが漏れる。いつも通りの「これは演劇なのがどうなのか」という”もどかしさ”を残しつつ、気安さでパッケージングした、いつもの演じられた結果を観続ける痛ましさが余りなく、好意的な気分のまま椅子に座り続けることができる。

1.演劇にならなさを提示したら面白いのでは?
2.やはり演劇にならなさ過ぎた
3.なぜ演劇にならなかったのかの方を提示しよう
という基本構造はいつも通りの流れ。で、そのプレゼンが”演劇になる”という部分の見せ方が、今回は観易いつくりになって上手くいっていた印象。

A.ジャコメッティ=矢内原という他人の偶然の類似と、
B.父=子の血の繋がりというある程度の必然がある類似。
A.B.どちらも後者の前者に対する親しみが根底の着想には見付かる。ただしB.はA.の演じられたものとしても出発している。(後にその失敗も提案される)

("実況プレイ動画的"というのは確かにあって、しかも「嫁にプレイさせる」系の素人いじりに近いノリもある。素人は演技をすることが出来ないがプロットに従って動くことは出来、それを演出の俎上に乗せる仕方だ。これは快快の"プロットを演じる"という先行例がある)

ジャコメッティ=父、矢内原=息子(危口)の相関性は分かり易く、その変奏や展開が行われるが、アネット=大谷の相関性は薄く、浮動性がある。この点には注目すべき構造がありそうだ。大谷の浮動性に注目するにしても、冒頭に登場した危口母の扱いをどうすべきか、という判定が生じる。舞台面に登場していたのは客入れの間、危口前説までだから舞台外とも言い得るが、構造としては板付き客入れとも言える訳で、舞台上から立ち去る人(母)と舞台上に残り続けて明らかに演じを開始する大谷という女性が、舞台の立ち上がりに交点を持って存在している。

(ちなみに、大谷ひかるは鼻の高い美人。いつまでも結婚しない息子(危口)が演劇を理由に父親へ送った空想の夫婦像という、束の間の淡い親孝行にも、通俗的には見えなくもない。これはアネット=大谷から、矢内原とアネットの不倫仲の提示が(意図的にか)不充分だったことに由来する)

父親が仮面を被った息子の肖像を描く。次に描き手とモデルが交代して、その絵の上に今度は息子が父親の肖像を加筆するように描く。親子だけあって両者は顔つきがとても似ている。これは父親の肖像だろうか、父親と後の繋がりを敷衍した息子の自画像だろうか。絵の具というマチエールは、それらの混交が描かれるようにさせる。息子を描く為に用いられた絵の具も、父親を描く為に用いられた絵の具も、描くという行為の結果として生じる筆触において混交している。

それにしてもフランス歌謡とか古典アニメの戯画性のようなシーンとか、いかにも通俗的フランス映画のようなラストとか、あのディティールは何なのか。『風立ちぬ』の、軽井沢での紙飛行機を追いかける戯画的なシーンは長過ぎると思ったが、あれでどんな質感を手に入れようとしたのか。

演劇において"それ"が演じられること、AをBとして演じるという対応関係が観者の想像力に働く。つまりBが先にあり、そのオリジナルとしてAが仮構される(B→A)のだが、危口くんの場合は端から「演じられたものを演じる」として、A'→Bの提示からA'→BとA'→B'との差延を展開する。
いや、「演じられたものも演じる」としたとき、それを"も"としたことでB-B'の重畳も確かにあるな、とも思える。であれば、そうならざるを得ない強制があって、そこからB/B'の引き剥がしという力学も働く、という想像もし得る。