September 20, 2015

川村元紀『牡蠣座』展

日暮里に在るHIGURE 17-15 casにて、川村元紀『牡蠣座』展のOPパーティに顔を出す。
見知った顔が集まっている。展示は1階と2階。
1階には川村作品としてはニュートラルなもの、2階には絵画系の作品が展示されている。
1階のインスタレーション作品は絶えず顔馴染みらにより「ああだこうだ」と配置が変更されていく。
川村くんはそれに対して始終「許容できるか/否か」の問答をしている。
作品の形態的な脆弱さよりも、川村くんのナイーブさをいかに尊重するか、といったパフォーマンスにも見える。
2階に展示された絵画作品群にはアーティストトーク的に解説が加えられた。
いや、寧ろ強い問答といったふうに、川村くんに対して来場者らからの愛の叱咤が投げ掛けられる。彼は愛されている。

今回の絵画作品のコンセプトとして解説されたのは、「カンバスの貼り方が分からない人が描いたカンバス画」「画中画。例えば漫画の中で優れた作品としてそれが提示されるとき、それ単体で抜き出した場合には不味い絵だとしても、作品世界内に於いては優れた作品として扱われる」という2つの構造のことだ。
そのどちらもが"アウトサイダー的"という言葉でそう言われた。
が、これら2つの要素が作品の一体性として充足されているようには、僕には思えなかった。前者と後者は別の構成に列する、つまりバラバラな要素にみえた。
前者は、どちらかといえば川村作品における"いつもの態度"、絵画作品の支持体をどう展示するかという試行錯誤に通じている。
今回独特の要素として提示されているのが後者の要素である。
それは絵画内の構成において既に充足されているので、カンバスの張り方が通常のものだったとしても十分に成り立つだろう。
そうでなければ、絵画内で発揮された美的関心が当然カンバスの張り方にも発揮される筈であるが、そうではない、という矩形の矛盾が生じているように思えるからだ。
(画中画の画枠の矩形では角が扱われているのに、カンバスの木枠は角がはみ出して交差している)
ゆえに、ここで導入されるのは第三の基準、即ち作品が成立するストーリーということになる。シミュレーショニズムにも見えるが、もっとバラバラな成り立ちである。
いうなれば"川村くんのナイーブさをいかに尊重するか"であるが、そう言ってしまうならまた却って飛躍にもなってしまう。

それから駅近くの中華料理屋にて小規模な二次会をした。