February 11, 2017

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Amazonにて注文した、
大波篤 司『図解 近接武器』(新紀元社、2006年)、
を受け取った。

横浜、KAATへ行き、TPAMプログラムのアピチャッポン・ウィーラセタクン『フィーバー・ルーム』を観た。
彼のこれまでの映画作品には、例えば『真昼の不思議な物体』でも演劇的なもののモチーフがみられるし、
今回はどのように「演劇」というものにアプローチするのかは気になっていた。

この作品を「演劇」と言うのは少々躊躇があるが、どのような点が「演劇」だったかという点にはその端々に示唆があるようには思われた。
構成としては映像インスタレーション作品の演劇的な上演と言える。
舞台上には生身の役者は一人も登場しない。上演は映像の上映、およびプロジェクタによる"プロジェクション"を軸に展開される。
そしてこの「舞台上」というものについてをそもそも考えなければならない。
この作品における「舞台」とは何か?
観客は暗がりの客席へと通されて着席した後、その正面には「舞台」があるのだ、ということを期待する。
ところが中盤に差し掛かって、当の観客は"劇場"のステージ上(舞台)の上にいるのであって、本来の客席はこれまで"舞台がるはずだ"と期待していたその先にあるのだ。
ここには少なからず「観る側/観られる側」との反転は予感される。
だから客席に立ち込めたスモークの向こう側で緞帳が開いたとき「そうだった! やられた!」という感じがした。
そして正面からの、1台のプロジェクタからの強烈な照射光。
このプロジェクションがスモークの中に新たな空間的規定をプロジェクションする。
プロティノス的な、この「一者」の強烈な光点が残る。それはどのようにしても覆い隠すことができない。
ここで改めて、観客には、この作品においては何が演じていたのか? この作品における"舞台"とは何か? という問いが立ち現れてくるように思われる。
観客は観る者から観られる者へと転換する、と同時に緞帳の向こう側からの一者がスライドしてくる。
ここには観る者と観られる者というものはなく、一者もなく、在る者がある。
とはいえ、終劇でのこの作品の終わりを飲み込んでの拍手のしにくさや、スクリーンにスタッフロールが流されること、
"演劇作品"の枠付けの結構とはどのようであったかといえば、この作品はどうにもその点で「演劇」としての座りの悪さがあるように思える。
このスタッフロールはカーテンコールではない。
この上演は"いま"演じられたものではなく、既に演じられたもののオペレーション(遂行)であり、
言うなればプロジェクタを中心にして劇場設備に演じさせることであるから、
確かに演劇作品一般の劇場施設における上演行為の規定には関わってくるが、類-演劇である。

観劇後に会場で待ち合わせていたWdさんと中華街をぶらつき、遅めの昼食をとった。