May 18, 2008

快快『ジンジャーに乗って』の雑感。

 面白かった。僕にとっては非常に興味深い作品だったし、何より肩肘張らず気楽に観ることができた。前作の『霊感少女ヒドミ』もだけれど、それ以前の作品でも同様に描かれ続けている「東京」という都市の肖像が、雑然として生々しく目の前に開けていく。それが本作では「これでもか」というほど一層にあざやかだった。
 劇中に繰り返される「わかんない」と「ひさしぶり」に、僕は雑踏での邂逅を見た気がする。これは日常生活にある他者とのちょっとした擦れ違いのなかにも生じる触れ合いの質感とでも言えるだろうか、例えば肩を寄せてひしめき合う存在の喧噪への耐えられなさや、ふと他人同士の手と手がぶつかり合ってぱちんと乾いた音を鳴らすときに感じるスリル——都市が内包する刹那の緊張感——が、ダンス中の不安定な身体性に集約されていく。瞬間瞬間が、ふつふつと忘我の彼方へと消え去ってはまた新たに次々と現れてくる。浮遊ではなく"滑走"という感じ。キェルケゴールが「ほんとうの反復は前方に向って追憶される」と言ったように、延々と続くかのような「日常」の経験は、決死の跳躍、そして束の間の浮遊感の後に現れてくる欲動の滑空であり、重力との均衡を保ち続けるような滑走の疾走感なのだ。
 終演後の舞台に残存する気分は確かに切ない。が、これはノスタルジーなどではなく圧倒的なリアリティなんだと思う。
 「セグウェイに乗って、何もしない」——約めて言えばそういう印象の作品だろうか。この「何もしない」ということが、演劇における物語ることの過剰さ(「無駄」)を通じて描かれていく。それは、一幕においてはベケットを通じて、二幕では前幕の再現と展開を通じて、そして最後には、まるで折り紙を開け広げ解体したかのような幾筋もの折り目だけが残される。が、この折り目に物語の痕跡を認めてノスタルジーを感じても仕方がないのは上に述べた通り。
 本作では、日常にぽっかりと空いたエアポケットのような瞬間に感じられる爽快感が「晴れた日の散歩」として登場する。この感覚がもし、本作の演出シノダがアフター・トークで語っていたような「瞬間が死んでいく」こと(ハイデガーなら「先駆的了解」とでも言いそうなもの。本作では、演者が立ち上がって台詞を口にしては倒れる、という動作に還元されている)へも通じていくのだとすれば、それは「再極限の未了」(死の直前)でのスリリングな戯れともみえてくる。こうやってハイデガーを引き合いに出して語ると嫌が応なく壮語的な匂いがしてしまうものだけれど、この種の想像力が案外バカにならない作品だなと思った。
 近頃では他人の死が当然のごとく記述されていく時代になったが、それが戦時下のような肉体的な死の感覚とは違うとしても、やはりそれとは別種の仕方でありありと平明に認識されるようになっている。そして現に、インターネットを通じて今までは考えられなかったようなより多くの死亡者数を目の当たりにしている。だから焼け野原の六本木と普段の会話で口にするようないわゆる今の六本木とが結び合わされることには、もはや何の不思議もない。「死」を口にすると相変わらずドラマチックな感じのする世の中ではあるけれど、それでも自らの死は相変わらず自分自身のリアリティの核としてあり続ける(本作では「期限」とか「終わり」とか言われている)し、他者にとってもなお歴然とした事実としてはあり続けている。例えば死に関する記憶と事実とに向かい合った場合、そのような記憶は単に追憶されるものだとしても、事実はやはり事実として反復される(キェルケゴール的な「反復」は、初めて現れる出来事が既に在ったもののように繰り返される予言的な振る舞いをする)。だから2度目のデモのシーンのダンスから受ける爽快感は、こういう"強度の反復"——言うなれば「日常」の絶対的な肯定——によって現れるマイナー・トーンの清々しさなんだろうと思う。僕はこれを「生かされていることの自由さ」とでも言いたい。