May 8, 2008

快快『ジンジャーに乗って』についての試論。

 快快『ジンジャーに乗って』の稽古に二三度立ち会った際、それを観て直ぐに想起したのはベケットの事であったが、今となっては寧ろメルヴィルの『バートルビー』こそがこの作品を読み解く上での立脚点になるのではないか、と云う印象が強い。
 演劇に於いては、「舞台」と云う枠付けが観者に承認されたその時から、例え展開される物語が不条理であり現実離れしたものだとしても、舞台上に投げ出されたものは何であれ対象(ob-jet)として観られ、関連付けられ、鑑賞経験上の持続として文脈を構成する。言うなれば時間経験が暴力的に空間化される表現形態こそが「演劇」であり、舞台面に搦め捕られた対象は図らずも「物語ること」を強制されている。ましてや主体たる演者は、その意志力を以て尚更観るべきものとして観られていると云う点に抗う事は最早出来ないだろう。つまり演者は、単に舞台上に立つと云うだけで過剰なのである。
 このように、演者は「舞台」が及ぶ圏域を規定するし、逆に演者は「舞台」と云う枠付けの効果により日常的な条理の一切から切り離されている。言うなれば相補的な関係が成立している。舞台上の対象は、観るべきものとして観られる、或いは、観るべきではないものとして観られる。このような「べき」の及ぼす道徳的な効果と、然しながら依然として観られる対象としては残存し続ける保留性の、その狭間にこそ「舞台」と云う枠付けが露わとなっている。この振れ幅こそが即ち、 prergon(額縁)の持つ厚みである。parergon は ergon(作品)を、その周囲の環境から切り離すと同時に、また ergon からも切り離される。[Derrida, 1978]この二重の境界線の厚みが、鑑賞経験を展開し前進させるような階梯となっているのである。
 『バートルビー』に於いて繰り返される定式 "I would prefer not to(しない方がいいのですが)" は、舞台上に於けるこのような潜勢力の現勢化を明らかにする為のヒントとなるだろう。バートルビーは「それをしない」と云う事で、一体何を実現しているだろうか? この定式に対して、雇主である法律家は "You will not?(したくないのか?)" と彼に尋ねる。これはつまり彼自身の意志への問い掛けであるが、彼はそれに対しても "I prefer not(しない方がいいのです)" と述べる。言うなればこの書き換えに於いて露わとなるのは、彼自身に於ける"意志"の否定である。つまり彼は、潜勢力の現勢力への移行に伴う意志の力を自ら否定する事で、彼自身が潜勢力の場を体現するのである。(「純粋な潜勢力という状態にあって、存在と無との彼方で、「より以上ではない」をもちこたえることができるということ、存在と無の両方を超出する非の潜勢力という可能性のうちに最後まで留まるということ——これがバートルビーの試練である」[Agamben, 1993])
 では、舞台上に於いて「何もしないこと」とはどのようなものであるのか? 何もしない状態に於いてすら、演者の行為は"何もしない演技"として「物語ること」を担わされてしまう。と云うのも、「舞台」という枠付けが観者に承認され続けている限り、演者の放つ意志力は尚過剰な状態にあるからだ。そして何よりも危険な事は、演者が舞台上に於いて「演じないこと」の態度表明をすることである。と云うのも、演者による「舞台」の枠付けと「舞台」の成立は同時であり、演者は「舞台」の成立に対しては宣言的な地位を占めているから、そのような表明は先ず作品内に於ける断裂を招くのである。つまり、分断化され複数化された「作品」の一体性を保証するものは、それらを包括するさらなる上位の基底であり、そのような再-回収により「舞台」は後続性を伴って延長されるのだ。言うなれば、演者の備える潜勢力が"断念"というかたちで露わとなるのがこの形式である。
 だが、作品内の断裂を避けながらも、今まさに現れつつある演者の潜勢力を舞台上に留めておくにはどうすればよいだろうか? 私はこの問いに対して、"演者の忘我" についてを言いたい欲求に駆られる。例えばそれは、舞台上の演者が不意に自らが次に成すべき事柄を忘却してしまい、「舞台」を保持しながらも何とか物語ることの持続を回復しようとするときに現れる作品上の裂け目である。忘我に際した演者は舞台上に於いて生身の身体を晒す危険性を伴う、と同時に、自らに課せられた役柄を遂行しようとする演者に於いては「演じること」それ自体の純粋な発露が現れている。つまり、演者と演じることとの重なりは演者の意志により規定され、即ち「観られるべきもの」として観者の承認を受けるが、この「意志」の否定に於いても尚「舞台」が継続される場にこそ演者の潜勢力が「演じ」として露わになるのである。

 これら上記の印象は数日前の稽古場においてのものであるから、本番までにはまた更に作品から受ける印象が変じていくことだろう。だから、これらの記述は雑感としての一時的な試論に他ならない。

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Deridda, J. 1978 "La Vérité en Peinture" = 高橋允昭/阿部宏慈訳『絵画における真理』1997。
Agamben, G. 1993 "Bartleby o della contingenza" = 高桑和巳訳『バートルビー——偶然性について』2005。