April 26, 2009

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休日の朝に、平日に比べれば少し遅い時間ではあるが、かと云って昼でもなくまだ充分に朝である時間に私は目覚めた。この日はとてもよく晴れていて、清々しかった。散歩をするにはお誂え向きの陽射し、陽光を浴びてビールを呑むには丁度良い気温、私は気紛れにもまた青山霊園を散策しようと云う気になった。途中、大学院時代の後輩Iさんによる表参道での個展が最終日であったことを思い出して立ち寄った。
この日の青山霊園は快適な空気に包まれて涼しく、それまではアスファルトの上にじりじりと焼かれて、陽気が最早熱気となって煩わしかったこともあり、墓石をの間を縫うように散策をしていると、心地好い風に吹かれて忽ちに快活な気分になっていたことは言うまでも無い。

April 22, 2009

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 先日、私が原作と演出を手掛けた舞台公演『〜』が終了した。規模としては然程のものではない(公演数2回、動員数217人)が、予定していた200人の動員数を上回ることが出来たので、私はこの結果に満足している。
 この公演に関する概要を述べよう。当公演は、昨年8月に知人の研究者R氏(彼は民族学的なアプローチにより説話における夢と踊りとの関係について研究している)から打診を受けたことに端を発する。当初は彼の研究発表を兼ねたイベントでの公演を予定していたのだが、作品に対する私の構想が発展しイベントの規模には収まらないものとなった為に、公演を関連企画として独立させ、都内の廃校で上演を行った。彼の研究対象が「夢と踊り」であるから、私は当公演のテーマを「集団化する自己」として原作を用意するところから始めた。これは、私が以前より関心を寄せる「四人称」的な主体について、他者との関わりの中で自己が集団の一部として振る舞うことを過剰に意識した主体が他者との間にどのような関係性を生み出そうとするかを演劇的アプローチにより実現する、という狙いがある。言うなれば聖書に登場するレギオン(Mark 5, 1-20)のように、一人の人間がまた何千人もの集団としても振る舞う様子を、舞台上に目に見えるものとする試みだった。これにより、数=量からくる質=量という通俗的な演出手法を排除したかった。単数でありまた複数でもあるような主体の集団がどのような関係性を形成することで説得力を持たせられるかに私は注目した。また、このような集団を扱うことで、あたかも狂人の宴のような喧噪が露わになってしまうことは避けたかった。プロットは単純なもので、恋に焦がれつつその想いに逡巡する青年が友人に打ち明け話をしながら次第に恋の実現を果たす、という内容だ。登場するのは主に青年とその友人、青年が恋い焦がれている女性——この三人だ。このいかにも陳腐なプロットと「四人称的な主体による社会形成」というコンセプトとの間を繋ぐべくストーリを制作した。青年と友人との関係、青年と女性との関係、友人を経ての青年と女性との関係、青年と女性とが恋愛関係に至る飛躍、これらの関係性を順序立てて反復することにより、単数の主体が四人称化するというアイディアは当初より有ったのだ。

原作の戯曲化については、友人の小説家N君に協力を仰いだ。

演出のコンセプトは以上の通りであるが、加えて今回は演出上のコンセプトをどのようにして作品に反映させるか、言わば作品制作に於けるプロセス面の工夫も重要な試みの一つであった。私が今回試行したのはアジャイル開発の手法を劇作のプロセスに転用することである。これはソフトウエア開発の現場においては昨今一般化しつつある手法であるが、当然ながら演劇の現場においてはまだ認知すらされていない方法論だと思われる。これについての概略を示すと、レイン・フォール型開発に対して考案されたXP(エクストリーム・プログラミング)開発をさらに発展させたものがいわゆるアジャイル開発である。この手法は問題解決に関わる個々の目的意識を最大限に尊重するものであり、また個々の勇気が常に試される。レイン・フォール型開発の難点が厳密なスケジューリングの先行と、その実現におけるスケジュールの非流動性からくる時間的制約の発生に対する代替手法であることが重要な視座を与えてくれる。一般的な劇作は半年から一か月(短い場合には一週間程度)の期間で行われる、比較的中短期的なプロセスを経ている。が、時間の長短に関わらずこのプロッセッシングは段階的であり、どの現場においても或る程度共通する、言わば典型的な経験則を伴ったスケジューリングが為される。例えば以下のように——台本の執筆→演出コンセプトの決定、キャスティング→台詞合わせ→立ち稽古→ゲネプロ→本番、と云った具合である。更に言えば音響・照明・舞台美術などのスタッフによる劇作へのアプローチは演者の習熟過程に対して二次的なプロセッシングを行い目立って段階的である。つまり演者の習熟過程と舞台効果スタッフのプロッセッシングはシームレスではなく、非同期的なアプローチをとることが一般的である。以上のプロセスにより既存の劇作手法は、作品としての視座からは序々に詳細化の作業が行われることになる。と同時に、作品に関わる演出面での決定事項は常に後回しにされることで冗長化している。言うなれば先ず演出コンセプトがありそれが制作チーム内で共有され、次いでこの演出コンセプトの実現に関わる詳細化とそれ対する問題解決、この仕様化(問題解決方法の共有化)による段階的な目的達成がある。つまり、作品全体の完成度を平均化して達成度を推し量り、段階的に完成度を上げていくのが既存の劇作手法である。この方法論を実践する限り、例えば制作チームの構成員が常に流動的なカンパニーにおいては予定されていたスケジュールの大幅な遅延が起こり易い。のみならず演者・スタッフ個々の技量の差が歴然とすることによる制作進度の遅れ、さらには個々へのフォローに費やす時間的浪費や詳細化の遅れによるプロッセッシングのロスも大きい。これらのことが既存の慣習的な劇作手法の問題点である。

以上の手法は熟練したカンパニー内では日常的に見られる手法でもあるが、この為には先ず熟練した演者・スタッフが必須であり、詳細な意思決定がこれまでのコミュニケーションの蓄積によって省略されることで初めて実現されるものである。また、このような手法が製作期間の短縮に用いられることはあれ、作品全体での演出意図の詳細化と共有について意識的な方法論として用いられることは少ないように思う。


最後にこの場を借りて、当公演の実現に惜しみない協力をして頂いた関係者の方々、類い稀な才能を如何無く発揮してくれた演者の方々にお礼を言いたい。
(以上、公演パンフレット掲載文よりの転載)

(今となっては、このような公演が実際に存在したのかさえ覚えていない:2013/09/23)

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一先ず真理(と云う対象・もの)に近付いた、と云う自覚が生む高揚感、此れは後々に大仰に打ち捨てられもするのだが——を長らく"お預け"に味わっていないように感じる。
以前は何にせよこのような「気付き」に溢れ、すると私の生活は常に新鮮なものに更新されていると感じられ、私は私を自覚し、私はそう云った私自身を度々乗り越えて、また私自身の関わっている生活を常々更新し続けている、と云う実感の幸福が確かに備わっていたものだから。
ふと、そのような煩悶に浸されているときには必ず、この感情を沈めてしまったこと無く乗り越えを促す言葉が手許に転がり込んでくる——
或いは奇跡的とも形容したい欲求に駆られでもあるような、何か偶然の意図に衝突する。
はたとその様な匂いのする言葉が私の意識を目掛けて目の中へと飛び込んでくる!

厳しい言葉とは必ずしも過剰を示すものではない。どんなに激しく責め立てられようとも、然し機微にはぴくりとも感じさせないような叱咤もよくある。逆に、冷淡なほど適切な塩梅に調律された言葉には、背筋に冷や水を打たれたような恐ろしさがあるものだ。機械が厳しい物言いしかし得ないのは、それが機械の本性だからである。

それから帰路に就き自宅のドアを開くと、足下で何か黒猫が蠢き尻尾を振った。が、それは昨夜の雨に濡れたまま玄関に抛たれた折畳傘であった。ドアが開かれるのに任せて、持ち手を上にして置かれた折畳傘は床へとしなだれ掛かるようにして、やおらにゆっくりと開いたのである。
またここにも、日常の中に潜む幻想的なものが在った。

電話を通すと誰の声だろうが同じ声になる。声の高い低いはその時々の電波状況により容易に変わってしまう。だからもし声の主が誰なのか聞き分けるのなら、相手の放つ語調や調子、語彙や言い回しで判断するほかない。

サインペンを執って紙の上に人の姿を描いてみる。
線が何本か引かれるうちに、ゆるゆるとした線の調子が段々と互いに絡み合い、やがてひっそりと人の気配のようなものが現われ始めてくる。
すると私は途端に嬉しくなるのである。
朧げに姿を現した人影に親しみを感じて、思わず喋り掛けてみる。
すると増々、線が増々人のかたちを成していくようである。
「こっちを見ろ!」
私は画中の人物へ向かい呼び立ててみる。
が、次の瞬間にはもうすがた形が崩れてしまい、人らしき気配は跡形も無く消えて、紙の上には稚拙な線が幾筋か残るばかりであった。
これもまた万物の物化である。

私は一人の女性から熱烈なアプローチを受け続けていた。
彼女は私の、予てよりの友人である。
又、彼女は私の親友と五年ばかり以前には恋人の関係を持っていた。
私はその為に、私はその親友に対して気兼ねするばかりで、余り事については気が進まなかった。
が、そのような私の心持ちについてを彼女は意に介さないばかりか、さらなる熱を上げて彼女は私に向かい挑み掛かっていた。
こうなると最早私には断る理由が残されていない。
とうとう私は彼女の熱意を前に唯折れるしかなかったのだ。

僕を労っておくれ。僕は真面目過ぎて、気弱いんだよ。

君はこれらの事柄について、単なる狂人の戯れ言に過ぎないと断じるかもしれない。
だが、これこそが一人にとっての生活上の現実である。

人は自分の発する言葉について辛辣であろうとする余りに、つい過剰な言葉遣いを乱発する軽薄さが有るものだ。
例えば全ての言葉に「超」という接頭辞を尽く付けねばならぬようであるし、又全ての文言についても恭しく「非常に〜」などと前置きをせねばならない義務感に苛まれているかのようだ。
が、そのような含蓄の無い言葉に対して、一体誰が身を打たれて震えるような心の移ろいを感じるだろうか。
そのようなものは誰にとっても何の足しにならない事は明らかである。
そのように軽薄な言葉を浴びせ掛けられたところで、自身の機微には何らの動きも起こらない、心は微動だに揺らがないのである。

April 20, 2009

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元住吉の書店で、
石黒正数『ネムルバカ』(徳間書店、2008年)、
を購入した。

April 18, 2009

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昼過ぎから散歩がてらに、清澄白河から東京都現代美術館へ。『池田亮司 +/- [the infinite between 0 and 1]』展を観る。
会場は1FとB1F。地下にある吹き抜けの大きな空間は使われていなかった。展示作品は全部で7点。展示内容は上下の階で反復するような内容。上の階は暗く、プロジェクタによる映像投影が為され、下の階は明るくて白い(床にはフェルトが張ってあり、靴を脱ぐように言われる)。
清澄白河より青山一丁目へ。青山霊園を散策する。
表参道から国連大学を抜けて渋谷へ。その道すがらに在る古書店で、
竹内芳郎訳『自我の超越 情動論素描』(人文書院、2000年)[=Sartre, J.-P. "La Transcendance de l'Ego---Esquisse d'nne Description phénoménologique" 1937. / "Esquisse D'une Théorie des Emotions" 1939.]、
を購入した。

April 15, 2009

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日吉駅に在る書店にて、
『軍事研究』(No. 518, May, 2009)、
Prefuse73 "Everyting she touched turned ampexian"(2009)、
これらを購入した。

April 12, 2009

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昼過ぎにのそのそと起き出し、中原の図書館へ本を返却しに行く。
代わりに、
桝屋友子訳『イスラーム美術』(岩波書店、2001年)[=Bloom, J./Blair, S. "Islamic Art" 1997.]、
竹山博英編・訳『現代イタリア幻想短篇集』(国書刊行会、1984/1995年)[Calvino, I.、Buzzati, D. などを所収]、
河島英昭訳『薔薇の名前』(東京創元社、1990年)[=Eco, U. "Il Nome Della Rosa" 1980.]、
これらを借り出した。

April 11, 2009

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14時過ぎに家を出て、秋葉原へ行く。12V1AのACアダプタを買う為にあちこち探すが、目当てのもの見付からない。探していたACアダプタのプラグが少々特殊なもののようだ。標準プラグからの変換プラグを探すが中々ない。めぼしい店を数件巡ってもとうとう見付からず、終いに高架下の小店街を経巡ってやっと購入することができた。
秋葉原からは菊名へ行き、東京都現代美術館で催されている『池田亮司展』を観るつもりだったが、それから清澄白河へ行くことを考えると余り時間もなさそうだった。電気街から万世橋を越えて銀座線神田駅へと行き、そのまま真直ぐ清澄白河へと向かう。
この日、小山登美夫ギャラリーでは Gelatin 展のオープニング・パーティが催されていた。会場にはKrhさんの友人が何人か居るらしく、無料酒を呑むには良い機会だと思った。
それまでに散々歩き回って疲れていたから、駅を出てからカッフェを探して暫く歩いた。が、この辺りはオフィス街だからなのか、定食屋などは在れどもカッフェは見当たらない。結局は隅田川を越えて日本橋へと行き、手近なファミリーレストランに入った。
定刻には少し遅れて19時頃に会場へ着いた。この建物のエレベータは、搬出用のいかにも倉庫といったふうな大きなものだ。それがなかなか下へと降りてこない。やっと降りてきたかと思うや、エレベータ・シャフトの上の方から何やら騒がしさも降りてきた。ドアが開いて、思わず笑ってしまった。Krhさんの友人の一人が、小さなレコード・プレイヤを前に、学ランを着てDJをやっていた。会場に入ると、案の定、居るのは外国人ばかりだった。見知った顔も幾つか有る。無論、その全てが知り合いという訳ではないが。軽く作品を観て回る。そのままの足で屋上へ向かい、早速酒にありつく。その間にKrhさんから友人を紹介される。私は、英語を聞いたり読んだりする分にはなんとかなるが、話すとはままならない。相手が簡便な英語を話すに任せて、私はそれに日本語で以て返答した。
展示されていた作品について、それらは大凡私の趣味からは外れたものだった。売値は見ていないが、多分値が張るだろう。オーストリアのグループ Gelatin、作品にはペニスやアヌス、糞便の類いが頻出する。他愛もない悪趣味な感じもする。既成のぬいぐるみを解体し、再構成をしたらしいオブジェ、コラージュふうのデザインが為された椅子やテーブルなどは、微笑ましい好感が持てた。他、粘土状の樹脂を貼付けた絵画作品の一部には面白いものがあった。これは、適度な大きさに丸められた様々な色合いの樹脂を画面に貼付けることで描かれたモザイク状の絵画だ。用いられた樹脂辺の一つ一つは外形が維持され、混じり合っていない。つまり、作品に掛かる手数を数え上げることができる。又、この樹脂辺の一つ一つは手垢のように汚らしいのでフェティッシュを喚起しない。それらの集合によって、何らかの観られるべき注意を惹こうという態度は面白い。まさに質感にこだわった結果、陳腐なイメージと結び合っている。
20時を過ぎて、他の階も観て回り、その都度酒に手を伸ばして呑んだ。他の会場には特に見るべき作品がないように思われた。その内の二つ、刺繍による絵画作品と、八木アンテナによるインスタレーション作品(以前にYsdさんから聞いていた作家の)は、それなりに面白かったかもしれない。
それから、Krhさんとその友人(オーストリアで建築を専門としているらしい)との三人で八丁堀の居酒屋へ行き、軽く呑んだ。外国人が日本食の何を好むのかがよく分からない。仮に私が他国へ行き、他国語で書かれたメニュを見たとして、そこに写真も何もないとすれば、確かに料理の注文には困ることになるだろう。果たして隣のテーブルを指差し「あれと同じものをくれ」と言うことになる。彼とは会場で建築の話をしていたので、ここでは都市論的な話をした。

April 10, 2009

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勤務中に、フランスから日本へ一時帰国しているらしいFnbさんから電話があった。暫し考えて、この日の夜にでも会うことにした。彼女がストラスブールの劇場で舞台美術についてを学んでいるということは知っていたが、それ以上の詳しいことはよく知らない。彼女とは2年ばかり前からネット上の遣り取りをするようになり、それは専らSNSかSkypeによるものだったからだ。つまりこれが初対面ということになる。
タイ料理が食べたくなったので、勤務先から新宿へと向かう途中、渋谷でKrhさんと合流する。Fnbさんは友人とゴールデン街で呑む予定だと言っていたから、私たちはその近くにあるタイ料理屋へ行くことにした。新宿へ着いてFnbさんに連絡をすると、彼女もこのタイ料理屋へ行くということになったので、東口前の広場でAltaVisionを観ながら到着を待った。新宿の街並は汚らしく、雑然としていて、電車の中で精神を患った人間たちが、街中へどっと繰り出したかのような喧噪があった。おそらくこういうものに対して誰もが互いに耳を塞ぎ合っているのだろう。
Fnbさんと合流して、目当てのタイ料理屋へ向かう。彼女の友人は後から追い付くとのこと。新宿駅からは幾分距離があるのでその友人が店まで上手く辿り着けるかが少々不安だ。
一先ず酒と料理を注文して、三人で呑み始める。後からFnbさんの友人が現れる。幾らか演劇関連の話、それと他愛もない日本の文化や世相に関する話をした。

April 4, 2009

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Krhさんと花見に行く。
上野駅公園前口を出て、国立西洋美術館にあるロダン『地獄の門』の傍で待ち合わせる。東京都美術館で『Arts & Crafts』展を観たあと、園内を抜けて、道すがらに缶ビールを買い不忍池へ。音楽堂の作の外でサニーデーサーヴィスのライブを聴きながらうだうだしていた。
それから散歩がてらに谷中霊園へ行った。谷中銀座に寄り、酒の肴を買った。
それから、外苑前まで移動して、ワタリウム美術館へ行く。Krhさんは友人と合流してイベントに行った。当日のイベント・チケットがなかった為に、私はすぐ近くのカッフェでイベントが終わるまでの時間を潰した。