April 22, 2009

untitled

一先ず真理(と云う対象・もの)に近付いた、と云う自覚が生む高揚感、此れは後々に大仰に打ち捨てられもするのだが——を長らく"お預け"に味わっていないように感じる。
以前は何にせよこのような「気付き」に溢れ、すると私の生活は常に新鮮なものに更新されていると感じられ、私は私を自覚し、私はそう云った私自身を度々乗り越えて、また私自身の関わっている生活を常々更新し続けている、と云う実感の幸福が確かに備わっていたものだから。
ふと、そのような煩悶に浸されているときには必ず、この感情を沈めてしまったこと無く乗り越えを促す言葉が手許に転がり込んでくる——
或いは奇跡的とも形容したい欲求に駆られでもあるような、何か偶然の意図に衝突する。
はたとその様な匂いのする言葉が私の意識を目掛けて目の中へと飛び込んでくる!

厳しい言葉とは必ずしも過剰を示すものではない。どんなに激しく責め立てられようとも、然し機微にはぴくりとも感じさせないような叱咤もよくある。逆に、冷淡なほど適切な塩梅に調律された言葉には、背筋に冷や水を打たれたような恐ろしさがあるものだ。機械が厳しい物言いしかし得ないのは、それが機械の本性だからである。

それから帰路に就き自宅のドアを開くと、足下で何か黒猫が蠢き尻尾を振った。が、それは昨夜の雨に濡れたまま玄関に抛たれた折畳傘であった。ドアが開かれるのに任せて、持ち手を上にして置かれた折畳傘は床へとしなだれ掛かるようにして、やおらにゆっくりと開いたのである。
またここにも、日常の中に潜む幻想的なものが在った。

電話を通すと誰の声だろうが同じ声になる。声の高い低いはその時々の電波状況により容易に変わってしまう。だからもし声の主が誰なのか聞き分けるのなら、相手の放つ語調や調子、語彙や言い回しで判断するほかない。

サインペンを執って紙の上に人の姿を描いてみる。
線が何本か引かれるうちに、ゆるゆるとした線の調子が段々と互いに絡み合い、やがてひっそりと人の気配のようなものが現われ始めてくる。
すると私は途端に嬉しくなるのである。
朧げに姿を現した人影に親しみを感じて、思わず喋り掛けてみる。
すると増々、線が増々人のかたちを成していくようである。
「こっちを見ろ!」
私は画中の人物へ向かい呼び立ててみる。
が、次の瞬間にはもうすがた形が崩れてしまい、人らしき気配は跡形も無く消えて、紙の上には稚拙な線が幾筋か残るばかりであった。
これもまた万物の物化である。

私は一人の女性から熱烈なアプローチを受け続けていた。
彼女は私の、予てよりの友人である。
又、彼女は私の親友と五年ばかり以前には恋人の関係を持っていた。
私はその為に、私はその親友に対して気兼ねするばかりで、余り事については気が進まなかった。
が、そのような私の心持ちについてを彼女は意に介さないばかりか、さらなる熱を上げて彼女は私に向かい挑み掛かっていた。
こうなると最早私には断る理由が残されていない。
とうとう私は彼女の熱意を前に唯折れるしかなかったのだ。

僕を労っておくれ。僕は真面目過ぎて、気弱いんだよ。

君はこれらの事柄について、単なる狂人の戯れ言に過ぎないと断じるかもしれない。
だが、これこそが一人にとっての生活上の現実である。

人は自分の発する言葉について辛辣であろうとする余りに、つい過剰な言葉遣いを乱発する軽薄さが有るものだ。
例えば全ての言葉に「超」という接頭辞を尽く付けねばならぬようであるし、又全ての文言についても恭しく「非常に〜」などと前置きをせねばならない義務感に苛まれているかのようだ。
が、そのような含蓄の無い言葉に対して、一体誰が身を打たれて震えるような心の移ろいを感じるだろうか。
そのようなものは誰にとっても何の足しにならない事は明らかである。
そのように軽薄な言葉を浴びせ掛けられたところで、自身の機微には何らの動きも起こらない、心は微動だに揺らがないのである。