March 31, 2012

untitled

元住吉に在る書店にて、
かわぐちかいじ『兵馬の旗』(Bd.3)、
を購入した。

March 29, 2012

untitled

通販にて、
『スペースハリアーII』(MD, SEGA, 1988.)、
『ゴールデンアックスII』(MD, SEGA, 1991.)、
『アイ ラブ ミッキーマウス ふしぎのお城大冒険』(MD, SEGA, 1990.)、
『アフターバーナーII』(MD, 電波新聞社, 1990.)、
『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』(MD, SEGA, 1991.)、
『レッドアラーム』(VB, T&Eソフト, 1995.)、
を購入した。

March 25, 2012

untitled

TWS本郷で荒木くんの作品をもう一度観直し、秋葉原3331に立寄りAと合流した。
それからAと共に中目黒へ移動してジンギスカンを食べ、近くに在る中古本量販店にて
MEGA DRIVE と、『ぷよぷよ』(MD, SEGA/COMPILE, 1992.)、
Kubrick, S. "Barry Lyndon"(DVD, 1975.)、
を購入した。

March 24, 2012

untitled

元住吉に在る書店にて、
石川雅之『もやしもん』(Bd.11)、
山口貴由『エクゾスカル零』(Bd.2)、
を購入した。
渋谷に在る書店にて、
吉国浩哉訳『いまだない世界を求めて』(月曜社、2012年)[=Gasché, R. "In View of a World" 2009.]、
上村忠男編訳『関係主義的現象学への道』(月曜社、2011年)[=Paci, E.]、
久木田水生・藤原直也訳『存在しないものに向かって』(勁草書房、2011年)[=Priest, G. "Towards Non-Being: The Logic and Metaphysics of Intentionality" 2005.]、
を購入した。
それから六本木へ、アートナイトの様子を見に行く。会場でImNさんに会った。

March 20, 2012

untitled

「かひは、もなかの皮の様に、ものを包んで居るものを言うたので、(…)此かひは、密閉して居て、穴のあいて居ないのがよかつた。其穴のあいて居ない、容れ物の中に、どこからか這入つて来るものがあると昔の人は考へた。其這入つて来るものが、たまである。」
「そして、此中で或期間を過すと、其かひを破つて出現する。即、あるの状態を示すので、かひの中に這入つて来るのが、なるである。」
「かやうに昔の人は、他界から来て此世の姿になるまでの間は、何ものかの中に這入つてゐなければならぬと考へた。そして其容れ物に、うつぼ舟・たまご・ひさごなどを考へたのである。」
「此石が、神の乗り物・容れ物と考へられた例が、段々ある。石がぢつとして居ないで、よそからやつて来る場合がある。石にたまが這入ると言ふ信仰には、たま、がよそからやって来て這入るのと、既に入つたものが他界からやつて来ると考へたのと、此二つがあつた様だ。」
「かういふ風に考へて見ると、他界からやつて来るたま、は、単に石や木や竹の様なものゝ中に宿るのではなく人自身が、ものゝ中に這入つて、魂をうけて来るのであつた。(…)即、容れ物があつて、たまがよつて来る。さうして、人が出来、神が出来る、と考へたのであつた。」
〔折口信夫『霊魂の話』(所収「民俗学 第一巻第三号」1929(昭和4)年9月)〕

March 10, 2012

untitled

元住吉に在る書店にて、
伊藤計劃『The Indifference Engine』(早川書房、2012年)、
を購入した。

March 9, 2012

untitled

水道橋、TWS本郷へ行き、『TWSクリエーター・イン・レジデンス・オープン・スタジオ トーキョー・ストーリー 2011』のオープニング・パーティに顔を出した。
荒木悠くんの作品が面白かったので、作品についてを短めの文章にでもまとめて、展示の会期中に公開出来ればと思う。

HDVを16mmフィルム変換した作品。質感はフィルムだがディテールは明らかにデジタルで、フレーム・ブロックノイズ・ピクセル解像度・ループと云う低画質デジタル映像の問題が一挙に現れてくる。
胡桃を咥える烏を捉えた数カットを延々ループさせるものだが、不思議と飽きない。魅力がある。映写機に取り付けられたループ・メカニズムのテンションバーの存在が興味を惹いた。

March 8, 2012

untitled

日吉駅に在る書店にて、
大場つぐみ・小畑健『バクマン。』(Bd.17)、
を購入した。

March 7, 2012

untitled

今後のギャラリーはどのようであるか? オルタナティブ・スペース以降、これが一段落して通俗化すれば、次には通路のような建築のギャラリーになるのではないか。屋根と床だけで、壁は無い。
もし、今の作家を志すような若者が相変わらず与えられた枠の内側にひたすら丹念な書き込みによって単に空白を埋める、空間恐怖に最も苛まれているのだとしたら、今後の有るべきギャラリーは彼らの広場恐怖を取り除くべく空き地の如き建築になる筈だ。
他方で巨視感快楽にすっかり親和した若者にとっては、残る全ての壁面だけが、彼らの唯一の展示場所になるだろう。