May 24, 2013

渋谷慶一郎『THE END』@Bunkamuraオーチャードホール

渋谷でn君と待ち合わせて、渋谷慶一郎『THE END』の マチネを観た。

この作品を僕は擁護しにくいと感じる。
オペラでも無ければ演劇でもない。かなり映像的な作品だった。そのため、舞台空間の立ち上がり方と、特に舞台上手奥の箱(演奏ブース)になぜエモい演出がされていたのか、ちぐはぐな印象を受ける。その端緒は終劇でスクリーン右下に投影される"The End"の文字、これだ。
オペラと言うには和声がないし、演劇というには舞台の立ち上がりが無い。あれをアリアとしてオペラと言ってもよいかもしれないが、では映像上映と何が違うのか?
あれがどのように"オペラ"だったのか、どれほどオペラとして受容することに蓋然性があるかが単純に疑問で、私にはよく分からなかった。
例えば、最も最近に陳腐化しつつある映像の乗り越えとして、あの作品のオペラ性が機能し得るか、という問題は有り得るか?
もし形式的にはオペラ性を満たしていたとして、ところでオペラには音楽的要素以外の、演劇的な舞台空間性はそれほど必要とされないのだろうか? 舞台空間としてみたときに、空間の立ち上がりの薄っぺらさが気になった。
観劇後にスイガドウさんから聞いたところに寄れば、YCAM公演ではピアノ・パートの前に渋谷氏がおもむろに舞台上を去るシーンがあったとのこと。それならあのエモい演奏ブースの意味が分かる。まさに映像である演者としての初音ミクの身体を、演奏者の生身が担保するかたちになるからだ。
が、東京公演ではその生身性は感じられなかった。今回も同様に、渋谷氏がブースから退場する動きはあるようなのだが、それは演出に絡んでなくて客席からは全然分からない。演劇的視座でみると、あの空間はブース以外は真空で用途が無く、ブースもプロジェクションされてて舞台から独立しているとは言えず、結果的に映像のレイヤーが2枚ある感じだった。結果として手前のスクリーンと奥の三面スクリーンとの間の空間はスカスカだったので、それほど意味深いものにはなり得なかったのだと考える。

夜にバルトから帰国したkgch君がウォトカを持って自宅に遊びにきて、そのまま時差呆けの解消に翌朝まで眠っていった。