作家論的に、例えば「ゴッホは悲しんだときにこの絵を描いたから、この絵は悲しい」のような言い方が為されるが、では「この企画展はキュレータが悲しんだから悲しい」というような言い方は有り得ようか?
作品鑑賞に於いて、キュレーションが排除された場合/コミットした場合、それぞれの観想にどのような違いがあるのか?
この二つの観想は、然し作品論として述べる場合には明言されにくいか、予め弁別されてキュレーションの手つきは排除され易い。が、そもそも日常に於いてキュレーションなしに作品を鑑賞する機会はどのくらいあり得るだろうか?
November 4, 2013
作品論に於けるキュレーションの弁別について
時刻: 00:00
label: Criticology, memorandum