April 30, 2008

快快 @ the "exPoP!!!!! vol. 13"

"exPoP!!!!! vol. 13" に参加する「快快」のダンスパフォーマンスを観に o-nest(渋谷)へ行く。

April 29, 2008

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近所の古書量販店にて、岩波書店『漱石全集』のうち幾冊かを購入する。
内訳は、
「文学論」(Bd. 9)、
「文学評論」(Bd. 10)、
「初期の文章及詩歌俳句」(Bd. 12)、
「日記及断片」(Bd. 13)。
函の背は日に焼けているが、本体の状態は頗る良い。
他に、ファラデー『ロウソクの科学』も購入した。
ふと思い出し久々に読みたくなった、美しい講義録。

今日の天気は晴れだった。

April 28, 2008

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「大きい変革の時代ではあっても情熱がなく、反省をこととする時代では、力の表出も一種の弁証法的な芸当に変わってしまう。つまり、すべてを現状のまま存続させておきはするが、すべてのものから狡猾にもその意義をだまし取ってしまうのである。そのような時代は、反乱となって絶頂に達するかわりに、人と人との関係のもっている内面的な真実の力を萎えさせて、反省の緊張という奇妙なものに一変させてしまう。すなわち、すべてを存続させておきながら、全人類を一種の曖昧さに、つまり、事実、すべてはそこにありはするけれども、弁証法的なペテンがこっそりと——それはありはしないのだ、という——内密の読み方にすり変えてしまうといった曖昧さに一変させてしまうのである。」
[Søren Kierkegaard, Revolutions-Tid "og, Nutiden" (En literair Anmeldelse), 1846.=桝田啓三郎訳『現代の批判』岩波書店、1981年]

 近頃では誰もが、状況の全てを言い包めようと躍起である。これ程までに「包括的であること」が重宝される時代も珍しいだろう。発言の曖昧さは、それが捉える射程の広さへとすり替えられる。終わりよければ全て善し、その「終わり」を巡って、つまり「終わり」の記述が彼らにとっての急務である——余りに馬鹿々々しいのだけれど、人々がアト出しの帳尻合わせにせっつかれている。ましてやこれが「マーケティングの成果」なのだとすれば? これは明らかに茶番なのだ。様々な価値が限り無く"0"へと近付く最中で、今後現れて来るのはファシズムかモダニズムのどちらかだろう。

April 25, 2008

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 参加チケットを手に入れる幸運に恵まれた為、"TENORI-ON Launch EVENT in Tokyo" に行く。出演者は Paul de Jong(The Books)、To Rococo Rot、Atom Heart、Jim O'Rourke。途中、岩井俊雄氏による TENORI-ON プレゼンテーションが行われた。ステージは4時間程、終演は22:30を過ぎた。出演者はそれぞれにTENORI-ON を用いた演奏を披露した。Paul de Jong は電子チェロと共にサンプラー的に、To Rococo Rot と Atom Heart はリズム・シーケンサー的に、Jim O'Rourke は殆ど TENORI-ON のみで楽器的に使用していた。Jim は機材トラブルに見舞われたのか、肩を落とし項垂れて舞台から去って行った。


 会場にデモンストレーション展示されていた実機を早速触る。操作性は中々良い。ボタン類のクリック感も適度で、操作に合わせて白色LEDが点灯する事もデコラティヴな効果に留まらず直感的な操作を容易にしている。インターフェイスの完成度は高い。
 操作感としては Ableton 社製のソフトウェア "Live!" を想像してもらえると分かり易いだろうか、随分とそれに似ている。TENORI-ON の演奏は、16階層6種類ある「レイヤー」への直接の操作と、「ブロック」と呼ばれる最大16セットのレイヤー群を切り替える事によって為される。 16*16の計256個からなるボタンの並びにより旋律やリズムが発音されるのだが、"美的な光の配置"という意識が演奏者に与える影響は思ったよりも強い。岩井氏曰く「美しい旋律は美しい配列に由来する」とは、彼が TENORI-ON の着想を得た「手回しオルゴール」のパンチカードに見られる穴の配置から導き出した言葉であるが、このことから TENORI-ON に於ける音楽性が"グラフィカルな音の配置"とでも言い得るような、視覚的な操作に大きく依拠している事が伺える。
 ただ、岩井氏が述べるような「電子楽器としての新しさ」については、それ程の革新性があるようにも思えなかった。彼はプレゼンテーションに於いて、独自性を備えた楽器が満たすべき要件として「音色」と「形体」、「操作方法」の3つに個性を備える事を挙げていたが、少なからず音色に関して言えば、それは既存のシンセサイザーと大した違いは無い。また、この点に就いては本人も認めている。楽器とは、操作と発音との間にそれらを必然的に結び合わせる独自の「喉(音色)」を備えたものを指す。それ故にTENORI-ON は、あくまで鍵盤式シンセサイザーの操作性を拡張したものとして捉えられるべきだろう。(確かに、鍵盤楽器とリズム・シーケンサーとを混ぜ合わせたような操作性と、それに付随した諸機能、加えて"音と光の融合"を実現したインターフェイスは、TENORI-ON という楽器が持つ大きな特徴と言える)さらに、本機はMIDI信号のin/out端子を備えているから、Jazz Mutant 社製のインターフェイス "Lemur"(及び "Dexter")と共に、私にとっては寧ろ照明操作の為のインターフェイスとして使用する事への魅力が強かった。

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"Drow Mode" を多用した際、LEDボタンを擦るように使うので、ボタン部の耐久性には疑問を感じる。マルチタッチUI+有機ELディスプレイの組み合わせにより、操作面の耐久性の向上と筐体のさらなる薄型化が図れないだろうか? また、極めてフィティッシュなマグネシウム・ボディには魅力を感じるものの、それ自体は単なる見た目の効果にしか過ぎず、音響特性に際立った変化を与える要素とも思えない。プレゼンテーションに於いては、このボディ部の加工に費やされる様々な手間についてが強調されていたが、その為に価格が上がってしまうのであれば、寧ろボディ素材をポリカーボネート等に変更する事で価格を抑えるべきなのではないか、と感じた。(マグネシウム・ボディを採用する事で、TENORI-ON の外見が玩具と混同されることを極力避けたいと云う意図は強いようだ)カラー・ヴァリエーションによる展開にも期待したい。(定価85,000円くらいで、例えば "TENORI-ON lite" のようなものが発売されたら一気に普及するようにも思う)

April 24, 2008

"DIRECT CONTACT VOL. 1"

 Temporary Contemporary(月島)で催された "DIRECT CONTACT VOL. 1" を観に行く。この日の演目は、木村覚氏企画の神村恵『ソロ+アルファ』と、大谷能生氏企画の大蔵雅彦『red scarf, red curtain (for violin and two electric guitars)』、杉本拓『Three speakers』、宇波拓『不在について』。
 神村恵『ソロ+アルファ』について、近年のダンス・パフォーマンスに見られる鍛えられていない身体(所謂「コドモ身体」)に対して、私は改めて否定的な感想を持たざるを得なかった。少なからず私は演劇に於ける「日常の身体」に肯定的な立場であるが、それは「演劇」と云う表現形態が備える「物語」に因り演者の身体が過度に確定記述される事への反発に由来している。ところがこのような弛緩した身体がダンス・パフォーマンスに於いて用いられると、演者の動きからは何の緊張感も生まれず、その行為(act)が観者の想像を超える事は有り得ない。それ故に、西洋的な万能主義に則った「鍛えられた身体」に対置されるべきは日常性を規範とした「弛んだ身体」では無く、その演目だけを完全に満たす為にのみ鍛え上げられた「奇形の身体」で無ければならない。確かに前者の万能性は過剰であるが、とは云え中者は作品の強度を保持する為には余りに非力なのである。
 後半の音楽企画については割愛する。まるで忍耐を酷使する修行のようだった。

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 後日、木村覚氏とこのイベントについて話す機会を得た。その際、神村恵にバレエの素養がある事——言うなれば「踊れる身体」である点——への指摘があった。が、とは云え、あの作品を観る限りに於いて私にはそれを感じる事が出来なかった。それは筋肉のみならず関節の扱いや、伴って現れてくる振る舞いの一切からはまるで緊張感と云うものが発されず、演者の行為が必然性を伴うまでに昇華されず、作品に於いて要請された身体を彼女が充分に満たしているとは思えなかったからだ。だから確かに彼女はバレエを踊れる身体であるのかもしれないが、少なからずあの作品を自立させる為の身体を持ち併せているようには見えなかった。

April 23, 2008

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「けんど、高知は人が少のうてイイねや」
「何しろ、何もかも、この街一つでカタがつくかが嬉しいち。——東京は便利ち言うけんど、移動しよるうちに一時間ばあはあっちゅう間じゃけんの」
「一時間あったら、桂浜まで行って、散歩まで出来るやんか」
「そうや。神宮球場行くにも乗り換えや何やで一時間や」
「その点京都なら一時間ありゃ、大阪でも琵琶湖でも奈良でも、ほいほい行けるぞ」
「はは。何や、そっちの方がエエように聞こえるの」

[スタジオジブリ『海がきこえる』1993年]

April 20, 2008

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今日は disk union 企画のイベントを観る為に ERA・下北沢へ行く。
でぶコーネリアス、group_inou、QOMOLANGMA TOMATO が出演。

下北沢の古書店にて
武満徹『樹の鏡、草原の鏡』(1975)、
id.『音楽の余白から』(1980)、
キェルケゴール『現代の批判』を購入する。

その後、"11.P.M" のメンバーたちと合流し、
久我山で行われた 11.P.M(Vol.27)を観る。

April 18, 2008

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 今朝、職場へ向かう途中に在る立体駐車場から、ショスタコーヴィッチの音楽が聞こえてきた。私は、驚きと共に、ふと足早な歩調を緩めた。『ピアノ協奏曲第2番』第2楽章だ。楽し気な第1楽章、快活な第3楽章に混じって、この第2楽章は少し寂し気な雰囲気を備えている。
 私は直ぐにこの音楽の題名を思い出す事が出来なかった。流れてくる耳慣れた旋律に耳を澄ませつつ、暫し逡巡した。その間にも、私の傍を一台また一台と自動車が通り過ぎ、螺旋状の通路を駆け上っていく。私の記憶が確信へと至るまでには幾瞬かを要した。それ程までに唐突な巡り合わせだった。
 演奏には幾らか冗長なアレンジが為されていて、私にはそれが苛立たしかった。が、何よりも先ず、市井の傍らでショスタコーヴィッチの音楽に出会えた事が嬉しかった。私は既に、彼自身に依る演奏の録音を耳の奥で反芻していた。聞こえてくる音よりもずっと心地好いテンポ。そのまま最終楽章まで聴いていたかったのだけれど、次に立体駐車場から聞こえてきたのは別の曲だった。
 私は再び緩めていた歩調を戻して、続きの第3楽章を——あの、何度も登り詰め、伸び上がるような、高揚感に満ちた旋律を——大声で口ずさんだ。

April 16, 2008

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寝不足の日々が続く。
ここ2週間の平均睡眠時間は3時間と少し。
やはり8時間は眠りたいものだね。
ろくに文章を書く時間も無い。
読書に楽しむ時間も無い
(急かされながら活字を目で追うようなことはしている)。
只、音楽だけは四六時中鳴りっ放しで、私を楽しませる。
それは耳栓のように、私の聴覚を絶えず外界の騒音から遮断している。

April 15, 2008

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泉の会(読書会)に出席。

April 14, 2008

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神谷町に立ち寄った際に、久々に東京タワーを見上げる。
霊友会釈迦殿を見学する。

April 13, 2008

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11.P.Mの撮影。
山手線を周遊。

April 9, 2008

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group-inou "FAN" と DJ Codomo "Today" を購入する。
快快『ジンジャーに乗って』の顔合わせに行く。

April 5, 2008

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秋葉原・旧錬成中学校で催されている"101Tokyo"に行く。

April 3, 2008

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Stravinsky による自作自演録音集 "Works of Stravinsky" を購入する。