April 28, 2008

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「大きい変革の時代ではあっても情熱がなく、反省をこととする時代では、力の表出も一種の弁証法的な芸当に変わってしまう。つまり、すべてを現状のまま存続させておきはするが、すべてのものから狡猾にもその意義をだまし取ってしまうのである。そのような時代は、反乱となって絶頂に達するかわりに、人と人との関係のもっている内面的な真実の力を萎えさせて、反省の緊張という奇妙なものに一変させてしまう。すなわち、すべてを存続させておきながら、全人類を一種の曖昧さに、つまり、事実、すべてはそこにありはするけれども、弁証法的なペテンがこっそりと——それはありはしないのだ、という——内密の読み方にすり変えてしまうといった曖昧さに一変させてしまうのである。」
[Søren Kierkegaard, Revolutions-Tid "og, Nutiden" (En literair Anmeldelse), 1846.=桝田啓三郎訳『現代の批判』岩波書店、1981年]

 近頃では誰もが、状況の全てを言い包めようと躍起である。これ程までに「包括的であること」が重宝される時代も珍しいだろう。発言の曖昧さは、それが捉える射程の広さへとすり替えられる。終わりよければ全て善し、その「終わり」を巡って、つまり「終わり」の記述が彼らにとっての急務である——余りに馬鹿々々しいのだけれど、人々がアト出しの帳尻合わせにせっつかれている。ましてやこれが「マーケティングの成果」なのだとすれば? これは明らかに茶番なのだ。様々な価値が限り無く"0"へと近付く最中で、今後現れて来るのはファシズムかモダニズムのどちらかだろう。