July 16, 2009

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 私は、職場ではいつも音楽を聴きながら仕事をしている。アイディアーからルーチン・ワークへ、特に「タスク」をこなしているようなときには音楽が欠かせない。選曲に特には「コレ」というような基準がなく、寧ろ「音」であれば何でも良い、という場合もある。以前は "Seeq Pod" を頻用していたのだが、これが米著作権団体との係争の末にサービスが停止してしまったので、最近では "You Tube" のプレイリストを利用している。時たまに自宅からCDを持参して職場のPCに入れ込み、"iTunes"で聴くような場合もあれば、そのラジオ機能で WNCU の Jazz チャンネルを聴くこともある。私は朝、出社してからの1時間程は各種ニュースサイトをチェックする習慣を持っているが、いつも通り NYT と WSJ に目を通してから、"NHK Radio Online" で言語を取り替えながら暫く他国語の声を聞いているときもある(営為の耳慣らしか)。或いは、"NASA TV" を夕方の放送終了時刻まで垂れ流しにしているときもある。又は、果たせるかなここには職場での作業内容に対する"共鳴関係"の働き掛けもあるのだ。先ほどの「音であれば」という私の嗜好はこのような聴取習慣の雑多性において表れている。機能的には個人的な「記憶術」か。他方で私にはタスクをこなす最中にアイディアーの思考をする癖があり、並行する手順の流れが実に思考の雑多を統制する、というような経験則を持っている。だからこの場合の「音」とは、思考の混雑を筋道付ける「ノリ」であり「調子」であるだろう。「思い付き」の羅列がただ何ともなしに向きを揃えられただけのことで、直ちにこれらが強力な道具立てに仕上がっているということは往々にしてよくある。つまり「聴く」とはいえこの場合は「聞く」と記述した方が適切だろう。私は音を聴くことで常々思考の余地を残しておく、他律的な意識の流れを維持している。考えることを考えているような状態に在って、そこから導かれる結果とは散々なものだから、「考えるとはいえ、考え過ぎないようにしよう」。その一方で、「音を聴き過ぎないよう、あくまで聞くのだ」ということである。