September 12, 2009

untitled

朝、蚊の羽音に悩まされて、暫くのあいだは彼とも格闘し、やがていじましく疲れてしまってまた寝入ったあと、それから再び目覚めたのは17時の鐘の音とともに、だった。どうやら随分と、土曜日の休日を寝過ごしたものだった。

’90年代以降の、日本人に典型的な症候として「ディアスポラ憧れ病(コムプレクス)」がある。これは度々、名称を違えて現われてくるものの、その大枠はついぞ変わらない(それゆえに"典型的"なのだが)。要は、自身の所属に対する倒錯した満足感があってのものらしいことが分かる。つまり、「私は、私自身の出自を有らん限り疑った上での、まさに今在るような私である訳だ。つまるところ私は、私という存在それ自体に大いなる疑問を抱いた一個体なのだ」という表明。記述するだに随分と壮大(否、尊大)な感じがするものだが、彼らがもし上手く喋れるものであれば、小差あれ大差なしと思う。換言すると、「私は私自身の存在について充分に疑うものなのだから、今ある私自身の在り方というものにも充分な正当性があるはずだ」という満足感。ひねくれた自己正当化の方式がここにはある。
 ディアスポラとはユダヤ人の振る舞いである。これに対して我ら"何となく日本人"は憧れてしまうのだ。というのも、日本で生活していく上では、とりたてて「私が日本人である」という強度のアイデンティファイを行う必要がないからだし、またTVなどのマスメディアを通じて、「世の中には実に様々な価値観がある、ということは格好善いね」と常々攻撃され続けてきたからだ。そういう人が海外に行き、またそういうライフスタイルが日常なのだという態度を示したがる。或いはそのような振る舞いに憧れる。彼らが海外を旅してその結果、「私は海外でも独力で充分に楽しんで生活することが出来たよ」ということだけが言いたい、実に旅というものを企てながらも日本での生活を延長してしまう怠惰が、声高らか(実際には抑制された口調で、充分に説得力を含ませるように)表明されることになる。
 ディアスポラであるユダヤ人が確固たるアイデンティファイを常々行わなければならないのはなぜか? (だが、行っている訳では無く、そのように見えるだけなのだろう)