January 30, 2011

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六本木に在る書店にて、
山口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』(河出書房新社、2011年)、
『思想地図β』(Vol.1)、
を購入した。
それから森美術館へ行き、『小谷元彦展 幽体の知覚』を観た。

January 29, 2011

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元住吉の書店にて、
石黒正数『それでも町は廻っている』(Bd.8)、
を購入した。

January 28, 2011

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久々にアヤメに行く。泡盛を呑み、三線を弾いて、歌って机を叩き、笑い、歓談し、何故こんなにも楽しいかと自問してみた。巧拙無く音楽は楽しめる。「自分が三線を覚えようと思ったのは——」と一人が言った「ハワイで同郷人が三線を弾くのを見て妙に感じ入ったからだ」と。私も幼少期をタイで過ごし、そして似たような感心から、もっと日本語を理解しようと意識した。

January 27, 2011

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日吉に在る中古本屋にて、
江川達也『日露戦争物語』(Bd.1-22)、
を購入した。

January 26, 2011

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綱島に在る中古本量販店へ行き、
『LUMINES』(PSP, Q ENTERTAINMENT, 2005.)、
大野徹『世界の聖域10 ビルマの仏塔』(講談社、1980年)、
を購入した。

January 25, 2011

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日吉駅の書店にて、
『軍事研究』(No.539, Feb., 2011.)、
を購入し、元住吉に在る書店にて、
牛島信明訳『弓と竪琴』(岩波書店、2011年)[=Paz, O. "El Arco y la Lira" 1956/1967.]、
を購入した。

January 22, 2011

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批評に於いては対象となる「作品」を完成された一個とはせず、それに於ける充分な包括性を許容する必要がある。

January 18, 2011

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どちらにせよ、観客が作家に興味を持つという状態から、観客がより具体的に作家の活動に対して参加する態度は要求されるだろう。あとはその為の意思共有にどの程度のコミュニケーション・コストが発生するか次第だ。

かと言って、作家を前景化した場合に、作品批評は成り立たないだろう。レビュならともかくとしても。作品の結果に作家が見えるのであって、作品の成立に於いて作家存在を特権化することがあれば、作品の鑑賞が先ず逆しまな価値になる。作品単体よりも作品相互の文脈性が優先されることになってしまう。

「この作品を作ったのはこの作家である」と言い得るのは実に作品を先ず指し示してから、その後で。つまり作品の先行を以て初めて作家はその作品の作家足り得るのであり、当の作家がまた別の作品を作ったことと、この作品の作家が彼であることの間には先ずは何らの繋がりが無い、と言える。

観客が作家を支援するのと同様、観客の願望を作家が実現する可能性も必要である。コミュニティ前提で作家と観者の関係性を構築するのでは無く、コミュニティ成立は作品制作と同時か、寧ろ両者の能動性を希求するのであれば作品成立に先行する必要があるだろう。

それを観客参加型だとか需要のマーケティングだとか言ってしまうと今さら陳腐なのだけれど、作家が作品制作の前に観客とコンセンサスををとることは、今後増々重要になるだろう。

作法と言うと作家自身の恣意性を尊重しがちとなるが、少なからず作品の提示によって、作家と観者とは作品の事実性に於いて切断されている。作品成立以後の受容の様態については、両者間のコンセンサスの仕方によるし、それを作法と捉えることも出来るが、決して型通りのパターンに分類可能なものとはならない。

January 16, 2011

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ジャンル分類。これは系統と云うか寧ろ"傾向"に寄る。つまり相対的分類と言える。厳密な議論には使えないが、雰囲気は伝わる。言うなればその都度、コミュニケーション・コストを掛けながら分類方法の精度を上げていくことを要する方法である。無論のこと、分類毎のアーカイヴィングとその蓄積、整理、それらの傾向の変遷の再検討が必要となる。この方法はコミュニケーション・コストを恒常的に無視出来る営為の多人数の参加が可能な状況に於いては有効だ。

January 13, 2011

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退勤後に渋谷へ向かい、『荒川智則展』『わくわく渋谷』(@ワンダーサイト渋谷)を観た。
人混みで基底材との適切な距離は? それは確保することが出来ない。作品性を作家個体性に既約すると、単なる多人数となる。少なくともシミュレーションもマニエラも無く、外部性無しには単なるグループ展でしかない。
例えばアニメ『S.A.C.』に登場する「スタンド・アローン・コンプレックス」を引くと、模倣子の集団による単人格の模倣(成り代わり/成り済まし)、と要約されるが、荒川智則については少数の模倣宣言子と多数の模倣受容子をまとめて一個の模倣子群とすれば、ここには荒川智則人格の通訳性という群集合が規定し得る訳だ。
主体性の模倣は、それ自体が既に対象と意図とに分たれた行為である。つまり、人格の成り済ましは個々主体性の模倣意図により、無署名性は事実性に於いて阻害される。となれば荒川智則の人格性の仮定は、成後的であるか、または事実性の共有化の旗印以下の審級で検討される。それが複数の作品の集合であり、単一の状況とは在り得ないことは、個別の署名性が、基底材を個別に分つからであるが、つまりはコミュニケーション不足による失敗か。

荒川智則展を簡単に総括すると、このままの方向性(雑多、多数、状況)で継続する限り、作品の一個性への乗り越えが起こらない事には、また何度も失敗し続けるだろう。目指された雑多な状況の奇跡的な一致というのは、共同制作の理想であるように見えて、実は事実性の放棄の名残にしかならない。これについて、同一対象に関するコミュニケーションの並行性に於いて、鑑賞経験の主体律を状況と作品のどちらに返すか、ということを考えていたが、この場合、作品が状況に依存するかたちで他立的だと、それに対する鑑賞言及が状況→作品→自己となり状況に再帰しないから自己定立が主観化する。
仮に個々の作品、という言及が許されるならば、それらはつき並みである。イベントとタイムスケジュールの同期性に期する方が相対化し易いだろう(事実、ニコニコ動画での中継が行われた)。多分、展示空間全部を何か企画展示の写真をコピー印刷したものを貼り埋め尽くすだけでも、解像度が有るから同義のものは成立しそうである。

January 9, 2011

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日比谷の映画館へ行き、『ノルウェーの森』[=Trần, Anh Hùng. "Norwegian Wood" 2010.]を観た。初音映莉子ちゃんの怒った顔が怖かった。ミドリ父の訃報の電話以降にダレが有る。そしてオチはトボケている。原作と比較して、ミドリよりもナオコに偏重している。

思考はコンテンツだ。その為の手段は無い。思考それ自体が目的であり、思考はコンテンツの技術的要件を模倣し、かつ更新する。つまり、思考とはアップデートである。(As We May Think)
実際には、客はそれほどまどろこしいことは考えずに、もっと単純な理由でコンテンツを選択する。対象のジャンル化が可能でその価値観が相場と通訳可能である場合、かつ客の金銭的余裕を阻害しない限り、価格の高低はある程度の範囲で無視される(コンテンツに対する「選択」の行使が優先される)。

January 8, 2011

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乗っ取り=支配を確立することなしに取り上げること、束の間であることなく流用すること——ストリート文脈に沿う。つまり、所有と管理からは逸脱し、かつ出来事として有用な時間単位或る場所を占有すること。無署名性との関係は社会的要因に依る。故に今日のヴァナキュラなもの、マイナーなもの、ブリコラージュ等々の表現が公然のものとされる場合、これらが「乗っ取り」である可能性を考慮する必要が有り、また乗っ取り対象からの所有・管理の一時的な引き剥がしは権利問題である。言うなれば、「乗っ取り」が公共性とは完全に対立しないが故に、マイナー表現は成立可能であるが、無署名性についての問題提起は失敗している。

January 4, 2011

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日比谷の映画館で『ゴダール・ソシアリズム』[=Godard, J.-L. "Socialisme" 2010.]を観た。
単にスクリーンに向かう体験だけで、ただただ快楽が持続する。