January 13, 2011

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退勤後に渋谷へ向かい、『荒川智則展』『わくわく渋谷』(@ワンダーサイト渋谷)を観た。
人混みで基底材との適切な距離は? それは確保することが出来ない。作品性を作家個体性に既約すると、単なる多人数となる。少なくともシミュレーションもマニエラも無く、外部性無しには単なるグループ展でしかない。
例えばアニメ『S.A.C.』に登場する「スタンド・アローン・コンプレックス」を引くと、模倣子の集団による単人格の模倣(成り代わり/成り済まし)、と要約されるが、荒川智則については少数の模倣宣言子と多数の模倣受容子をまとめて一個の模倣子群とすれば、ここには荒川智則人格の通訳性という群集合が規定し得る訳だ。
主体性の模倣は、それ自体が既に対象と意図とに分たれた行為である。つまり、人格の成り済ましは個々主体性の模倣意図により、無署名性は事実性に於いて阻害される。となれば荒川智則の人格性の仮定は、成後的であるか、または事実性の共有化の旗印以下の審級で検討される。それが複数の作品の集合であり、単一の状況とは在り得ないことは、個別の署名性が、基底材を個別に分つからであるが、つまりはコミュニケーション不足による失敗か。

荒川智則展を簡単に総括すると、このままの方向性(雑多、多数、状況)で継続する限り、作品の一個性への乗り越えが起こらない事には、また何度も失敗し続けるだろう。目指された雑多な状況の奇跡的な一致というのは、共同制作の理想であるように見えて、実は事実性の放棄の名残にしかならない。これについて、同一対象に関するコミュニケーションの並行性に於いて、鑑賞経験の主体律を状況と作品のどちらに返すか、ということを考えていたが、この場合、作品が状況に依存するかたちで他立的だと、それに対する鑑賞言及が状況→作品→自己となり状況に再帰しないから自己定立が主観化する。
仮に個々の作品、という言及が許されるならば、それらはつき並みである。イベントとタイムスケジュールの同期性に期する方が相対化し易いだろう(事実、ニコニコ動画での中継が行われた)。多分、展示空間全部を何か企画展示の写真をコピー印刷したものを貼り埋め尽くすだけでも、解像度が有るから同義のものは成立しそうである。