January 18, 2011

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どちらにせよ、観客が作家に興味を持つという状態から、観客がより具体的に作家の活動に対して参加する態度は要求されるだろう。あとはその為の意思共有にどの程度のコミュニケーション・コストが発生するか次第だ。

かと言って、作家を前景化した場合に、作品批評は成り立たないだろう。レビュならともかくとしても。作品の結果に作家が見えるのであって、作品の成立に於いて作家存在を特権化することがあれば、作品の鑑賞が先ず逆しまな価値になる。作品単体よりも作品相互の文脈性が優先されることになってしまう。

「この作品を作ったのはこの作家である」と言い得るのは実に作品を先ず指し示してから、その後で。つまり作品の先行を以て初めて作家はその作品の作家足り得るのであり、当の作家がまた別の作品を作ったことと、この作品の作家が彼であることの間には先ずは何らの繋がりが無い、と言える。

観客が作家を支援するのと同様、観客の願望を作家が実現する可能性も必要である。コミュニティ前提で作家と観者の関係性を構築するのでは無く、コミュニティ成立は作品制作と同時か、寧ろ両者の能動性を希求するのであれば作品成立に先行する必要があるだろう。

それを観客参加型だとか需要のマーケティングだとか言ってしまうと今さら陳腐なのだけれど、作家が作品制作の前に観客とコンセンサスををとることは、今後増々重要になるだろう。

作法と言うと作家自身の恣意性を尊重しがちとなるが、少なからず作品の提示によって、作家と観者とは作品の事実性に於いて切断されている。作品成立以後の受容の様態については、両者間のコンセンサスの仕方によるし、それを作法と捉えることも出来るが、決して型通りのパターンに分類可能なものとはならない。