June 18, 2008

Art and Objecthood

「リテラリズムの感性は演劇的 theatrical である。なぜなら、まず第一にそれは、そこで観者がリテラリズムの作品に出会う諸々の現実的な環境にかかわっているからである。モリスがこのことを明らかにしている。かつての芸術においては、「作品から受け取られるべきものは、厳密に[その]内部に位置している」のに反して、リテラリズムの芸術の経験は、ある状況における客体の経験である——それは実質的には定義上、観者を含んでいるのである。」
[Fried, M. "Art and Objecthood in Minimal Art" E. P. Dutton&Co. Inc., 1968.=川田都樹子/藤枝晃雄訳『芸術と客体性』(『モダニズムのハード・コア』 所収)太田出版、1995年]

「あるものが観者にそれを考慮に入れること、それを真剣に受け止めることを要求するとき、——そして、その要求が満たされるのが、単にそれについて意識していること、いわば要求どおりに行っていることによってであるとき——、それは現前していると言われる。(…)ここで再び繰り返すと、問題の作品によって距離を取らされているという経験が重大であるように思われる。つまり、観者は、壁なり床なりにある無感動な客体に対する主体として、不確定ではっきりとした制限のない——そして厳しさのない——関係の中に自分が位置していることを知るのである。」
[ibid.]

「暗い夜で、灯も路肩標も白線もガードレールも何も無く、あるのはただ平地の風景の中を通って進んでいく暗い舗装道だけだった。風景は遠くの幾つかの丘に枠づけられ、だが叢煙突や塔や煙霧や色光が点々と見えていた。このドライブは意義深い体験だった。道路と殆どの風景は人工的なものだったが、それは芸術作品とは言えないものだった。他方で、それは私にとって、芸術には決してなかった何かがなされていた。最初私はそれが何なのか分からなかったが、しかしその効果は、私がそれまで芸術について持っていた多くの観点から私を解放することになった。そこには、芸術においてはどんな表現も持たなかったような、リアリティーが存在していたように思えた。」
[《It was a dark night and there were no lights or shoulder markers, lines, railings or anything at all except the dark pavement moving through the landscape of the flats, rimmed by hills in the distance, but punctuated by stacks, towers, fumes and colored lights. This drive was a revealing experience. The road and much of the landscape was artificial, and yet it couldn't be called a work of art. On the other hand, it did something for me that art has never done. At first I didn't know what it was, but its effect was to liberate me from many of the views I had about art. It seemed that there was a reality there which had not had any expression in art.》
ibid.; originally appeared as Samuel Wagstaff, Jr., "Talking with Tony Smith: 'I view art as something vast.'" Artforum 5, no. 4 (December 1966), 14-19.]

「高速道路と滑走路と教練場は、一方で、誰にも所属していない。他方で、スミスにとっての現前性によって確立された状況は、各々の場合、彼によって彼のものだと感じられたものだ。さらに言えば、各々の場合、無限に継続することができるということが、欠くべからざることなのである。客体に取って代わるもの——客体が閉ざされた部屋の中で行うこと、つまり観者を遠ざけるもしくは孤立させるという役目、観者を一主体にさせるという役目と同じ役目をするもの——は、何よりも接近なり突進なり眺望なりに終わりがないということ、もしくは客体がないということである。その明瞭性、換言すればその全き持続性によってこそ、その経験は外部から彼のところに(高速道路の上では車の外から)差し向けられたものとして現れるのだが、その明瞭性こそが、同時に彼を一主体 subject とし——彼を服従 subject させ——、またその経験自体を客体 object の経験というより客体性 objecthood の経験に似たようなものとして確立するのである。」
[ibid.]

諸芸術の成功または残存でさえもが、演劇性を打破するそれらの能力にますます左右されるようになっている。おそらくこのことが演劇自体の内部において以上に明白な場所は他にあるまい。(…)というのも演劇は、他の芸術ではあり得ない仕方で観衆を所有している——演劇は観衆にとって存在している——からである。(…)ここで言及されるべきことは、リテラリズムの芸術もまた観衆を所有しているということ、ただしそれはいくぶん特別な観衆であるということだ。つまり、観者が自分のものとして経験する状況の中でリテラリズムの作品に対面するということが意味するのは、ある重要な意味において、たとえ実際には、その時作品とともにいるのが自分だけではなかったにせよ、その問題の作品は自分ひとりにとってのみ存在するということである。」
[ibid.]

質と価値という概念——そしてこれが芸術にとって中心的なものであるからには、芸術それ自体の概念——は重要であるしかも個々の諸芸術の内部においてのみ全面的に重要なのである。諸芸術同士の間隙に位置しているものが演劇なのである。」
[ibid.]

「リテラリズムの時間への没頭——もっと正確には経験の持続への没頭——は、典型的に演劇的だと私は言いたい。それはあたかも演劇が観者に対面し、そのことで、単に客観性の終わりの無さだけでなく時間の終わりの無さによって、観者を隔離しているかのようである。もしくはあたかも、根底において演劇が喚起する感覚ははかなさの感覚、つまり無窮の眺望の中で捉えられたかのような、過ぎ去りつつ且つ至り来る時間、近づくと同時に退く時間の感覚であるかのごとくである……。」
[ibid.]