June 12, 2008

untitled

「演戯もまた〈始まる〉が、その始まりには真摯さが欠けている。それはいかにも軽々しい。いつでも好きなときに手を引くことができるからだ。演戯はいくつかの仕草や運動、決断、感情、といったものからなり、それだけの開始の行為を含んでいるが、しかし演戯そのものの現実性は、こうした基盤を超えたところに位置しており、本質的には非現実性によってなり立っている。だからこそ舞台上の現実は——そして注目すべき点はこれが詩や絵画には当てはまらないということだ——つねに演戯として解釈されてきた。舞台上の現実は、現実でありながら痕跡を残さない。その現実に先立つ無は、そのあとに続く無と同じである。その現実に含まれる出来事には、ほんとうの意味での時間はない。演戯には歴史がないのだ。演戯とは、永らえて所有となることのない逆説的な実存なのである。演戯の時間はあるが、この瞬間は自分自身に執着しない。この瞬間は自分自身と所有の関係を取り結ばない。それは何も持たないし、自分が消滅したあとに何も遺さず、「一切合財」を無のなかに沈めてしまう。そして演戯の瞬間がこれほどみごとに果てうるのは、じつはそれがほんとうには始まっていなかったからである。」
[Emmanuel Levinas "De l'existence a l'existant" Librairie Philosophique J. VRIN, 1984.=西谷修訳『実存から実存者へ』朝日出版社、1987年]

「行為の開始は「風のように自在」というわけにはいかない。これが飛躍(élan)なら、すぐにでも跳べる態勢であっさりそこにある。飛躍はいつでも自由に始まり、真っ直ぐ前に跳んで行く。飛躍には失うものは何もなく、気遣うことは何もない、というのも何ものも所有していないからだ。あるいはそれは、火が燃えながらみずからの存在を消尽する、そんな燃焼のようなものだと言ってもいい。開始にはそうしたイメージが示唆するような、そして演戯において模倣されているような、自在さや率直さや無責任に似たところはない。始まりの瞬間のなかにはすでに何かしら失うべきものがある。というのは、何ものか——たとえそれがこの瞬間それ自体でしかないとしても——がすでに所有されているからだ。始まりはただたんに〈存在する〉だけではない。それは自分自身への回帰のなかでみずからを所有する。行為の運動は存在すると同時にみずからを所有するのだ。」
[ibid.]