なぜ最近の人々は、目の前に起こる事件を携帯電話によって記録し、即座に他人へと伝達し、共有しようとするのか? この一連の行為により、出来事との直接性は曖昧な間接話法へとすり替えられてはいないだろうか。つまり、人々が今まさに眼前で繰り広げられる余りにも悲惨な——それ故に言葉にすることが出来ない——事件に遭遇した際に、その場から少しだけ離れて己の身の安全を確保し、携帯電話の画面越しにカメラのズームで事件へと肉薄する時、彼(女)らは少し前に自らが占めていた位置を仮想的に取り戻す事で、自身が巻き込まれていた"筈"の事件を傍観しているのではないだろうか? だが実際には、当の事件は今でもまだ継続している。これからまだ何が起こるかも分からずに、彼(女)らは事件に対する迂闊な距離感に釘付けにされている——言うなれば、事件それ自体からはすっかり逃げ仰せた気でいるのである。その結果として、彼(女)らは事件に対する適切な隔てを確保する事も忘れ、現場から余りに近い位置を占めている。本来このような位置取りは職業カメラマンたちの職能であったが、今ではその役割を我々が代理している——この事は最早周知の事実である。このようにして私的なアマチュア・カメラマンたちは次第に公的な生活を排除する使命感を全うしているようにも思える。ところで、彼(女)らはそのように高度な専門性を代理するに足るような技能を備えているだろうか? というのが、私がそもそも抱く直裁な疑問である。彼(女)らは、当該の事件に対しては最早カメラのシャッタを切る事が精一杯の行為であったし、このようにして得られた記録(写真)には彼(女)ら自身の考察が一切付け加えられぬまま、ただ単にその事件に対する追憶から成る無限の反復作用がデジタルなデータのコピーという行為に転嫁されているに過ぎないようにも見えるからだ。換言すれば、彼(女)らがこのような一連の操作により期待するのは、自身が考察を保留した体験を記録へと置き換えインターネット上に投棄することで、その体験が他者の言葉により肉化する"可能性"を得る事であると言えるのではないだろうか。だが、この時点ではまだ共同体内においては何も共有されていない。とはいえ、一度インターネット上に投棄されたデジタル・データを完全に消去する事が不可能であるという復元の潜在性は、日常生活においては充分にリアルである。つまり、このようなインターネットの備える潜在性の強度こそが、彼(女)らの失語を回復し、便宜的に出来事との直接性を維持する為の理由である。我々は事件の記録のコピーを所有してはいるが、その内容は余りに惨たらしく、それについてを言及することが出来ない、というような後々までの保留も含めて、彼(女)らは当該の事件に今まさに対峙している。彼(女)らの事件に対する距離感の微妙さは、傍目には現実世界への鋭く柔軟な振る舞いにも見えて、実のところは彼(女)ら自身がまだ充分にその事件を理解出来ないが為に生じる機械的な復帰に伴う強張りが具体的に現れたものなのである。であれば彼(女)らは、自身が今どの場所を占めていることを知っているのだろうか? これらの事柄は紛れも無く冗談染みた形式である。例えばコピー・データを持ち歩く彼(女)らに、空の冠を頭に載せたホカヒビトの姿を重ねてみるというのはどうだろう。