June 10, 2008

今日の美術批評について。

 「自己責任に基づく趣味判断」と云うものについてを簡便に触れておく。
 「趣味判断」の形式は、対象がなぜ美しいかと云う理由にでは無く、それについて「美しい」と言い得る為の純粋に主観的な証示に基づいている。だが仮に、そのような"証示"を自らの責任において"証明する"と云うような、過度の主体性の現れが日本における現代美術が現在置かれている状況の根幹を成す価値観であるとすれば? この「過剰な主体」が作品の枠付けに対して積極的に参与することから、観者が作品との関わり合いの裡に保有していた戯れの余地すらもが作品の内部に枠付けされ、作品への言明が鑑賞という行為に代替される事により、即ち批評における「失語」の症候がひきおこされるのではないか、と私は予想している。