June 8, 2008

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 今日は目覚めの瞬間からして鬱屈としていた。最早何をする気にもならないと云った具合であったし、——気力さえ許せば——その侭、酒を呑んで直ぐにでも泥酔し、今日の一日をすっかりやり過ごして了いたいような気分になった。私の周囲に居る短絡者達のことを考えると、それだけでまた随分と気が滅入った。昨日購入した大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』を読み、Benjamin, W.『陶酔論(Über haschisch)』を読んだ。それから自転車に乗り近所の市立図書館へ行く。そこで
Derrida, J.『マルクスの亡霊たち——負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル(Spectres de Marx: L'etat de la dette, le travail du deuil et la nouvelle Internationale)』(1993年)、
Nancy, J.-L.『イメージの奥底で(Au fond des images)』(2003年)、
Levinas, E.『実存から実存者へ(De l'existence a l' existant)』(1984年)、
同『他性と超越(Altérité et transcendance)』(1995年)、
これらを借りた。

 先程の秋葉原での出来事は、人々に嬉々とした話題を提供し、さらには彼(女)らの大衆的なるものへの帰属意識をくすぐりさえした。近間で起きた他人事を見遣っては、そこからどれだけ自分が近い位置に居たのかを皆銘々に喧伝し合っている。子供が崖の縁迄歩み寄って、そこからきゃっきゃとはしゃぎながら戻って来る様子にも似ている。皆この出来事を自分の身の丈に宛てがい口々に安堵の言葉を擦り合っている。最早、そこでの倫理観とはこのような馴れ合いが為の飾りに過ぎない。私はこの種の親密さの醸成に対しては嫌悪感を覚えるのだ。皆銘々に、この出来事についての事実を知り得る限り述べ尽くした後、最後に自らの感想を付け加えるのであるが、その際に彼(女)らが口にする「私」に四人称的な振る舞いがある、それが為に「私」と「私たち」に因る共同体の形成と個人主義的な主観への偏重とが同時に伴っているのである。言うなれば客観が主観に於いて代理され、全く欠け落ちている状態がこれである。そしてこのように了解を起因とした共同体に於いて為される死者(他者)の記述が、一体どれ程に生活の実感を与えてくれると云うのだろうか? ——そのような考えも浮かばない訳では無かった。私は、明らかに他人の不快を楽しんでいたのだが、そのように無根拠な不快感に対して、私は全き不感覚であリ続けている。