November 13, 2008

untitled

「この倫敦塔を塔橋の上からテームズ河を隔てて眼の前に望んだとき、余は今の人か将た古えの人かと思うまで我を忘れて余念もなく眺め入った。(…)見渡したところ凡ての物が静かである、物憂げに見える、眠っている、皆過去の感じである。そうしてその中に冷然と二十世紀を軽蔑するように立っているのが倫敦塔である。(…)二十世紀の倫敦がわが心の裏から次第に消え去ると同時に眼前の塔影が幻の如き過去の歴史をわが脳裏に描き出して来る。朝起きて啜る渋茶に立つ烟りの寐足らぬ夢の尾を曳くように感ぜらるる。暫くすると向こう岸から長い手を出して余を引張るかと怪しまれて来た。今まで佇立して身動きもしなかった余は急に川を渡って塔に行きたくなった。長い手はなおなお強く余を引く。余は忽ち歩を移して塔橋を渡り懸けた。長い手はぐいぐい牽く。塔橋を渡ってからは一目散に塔門まで馳せ着けた。見る間に三万坪に余る過去の一大磁石は現世に浮遊するこの小鉄屑を吸収しおわった。」

[夏目漱石『倫敦塔』1904年]